軍拡費捻出をめぐる政府の対応:池田憲輶「松方財政から軍拡財政へ」(2012)

 とある近代日本史ゼミのアサインメントとして、『講座 明治維新』より松方財政に関する文献を読みました。

池田憲輶「3 松方財政から軍拡財政へ」明治維新学会(編)『講座 明治維新 5 立憲制と帝国への道』有志舎、2012年、87–112頁。

講座 明治維新5 立憲制と帝国への道

講座 明治維新5 立憲制と帝国への道

 明治14(1881)年政変によって追放された大隈重信のあとを受け、大蔵卿に就任した松方正義(1835–1924)は、大隈財政を部分的に引き継ぎながら財政政策を進めていく。このとき、松方の目標は紙幣整理政策を行うと同時に、正貨を蓄積するということにあった。いわゆる「松方財政」は、このような目的を遂行するために、明治15(1882)年に日本銀行を創設し、明治18(1885)年に事実上の銀本位兌換通貨制を成立させるまでの財政政策を指す。しかしながら本論文は、兌換制度の成立以降に、財政制度が国家体制のあり方と密接に関連していく側面を強調するため、「松方財政」をより長期的な視点から捉える。すなわち、明治14年から、松方が大蔵大臣兼首相を辞任する明治25(1892)年までを対象としている。このとき、松方財政をその後の日清戦争につながっていく「軍拡財政」と捉える通説に対し、政府首脳のそれぞれの考えをみることで、そういった見方からのみ捉えることを問題化する。
 松方による紙幣整理の基本方針は、歳出を抑制し、歳入の剰余を使って紙幣を消却していくことであった。しかしながら、明治15(1882)年に朝鮮で発生した壬午事変のあおりを受け、そういった財政政策に修正を加える必要が生まれた。つまり、その事変に際して清が積極的な介入姿勢を示したために、対清を想定して軍備拡張方針を取るという合意が政府内で形成されていったのである。ここにおいて、松方は紙幣整理を進めつつ、軍事費への歳出増大に対応するために、歳入を増大させるという方針転換を余儀なくされたのである。しかしながら、結局、軍拡費の増額が認められながらも、特に海軍が予算を十分に消化出来なかったこと、および、酒造税などの「非常収税」によって歳入を増やしたことにより、紙幣整理と軍拡を何とか両立することが出来たのであった。
 ただし、このまま軍拡費を増大させていけば、財政危機を引き起こすことは明白である。そのため、井上馨伊藤博文は86年度(明治19年度)予算をめぐって、軍拡計画を縮小的再編を中心とした経費削減策を目論んだ。それに対し、当然陸軍は強い反発を示したが、翌明治19(1886)年3月には一部を除き軍拡費を当面棚上げすることが政府内で決定される。このようにして、83年時点に計画されていた軍拡費のプランを政府主流派はかなりの程度削減することに成功したのである。ここにおいて、軍拡計画の継続的拡大による財政危機は回避されることになった。このように、あくまで松方財政においては紙幣整理などを優先事項とし、他の部局との兼ね合いも合わせ見ながら、相対的に軍事支出を優先していたと言える。すなわち、松方財政は軍拡財政としてのみ規定されるものではないのである。ただし、一般会計(常用部)に占める軍事費は1880年には20%弱であったものが、日清戦争前には30%超となり、着実に増加していったことは事実である。

関連文献

明治財政史研究 (1964年)

明治財政史研究 (1964年)