漁業からみる帝国日本の内と外/生物学史研究会(2013年8月10日、於:東京大学駒場キャンパス)

 「漁業からみる帝国日本の内と外」というテーマで生物学史研究会を開催いたしました。一参加者としてその報告のメモを。

漁業からみる帝国日本の内と外/生物学史研究会(2013年8月10日、於:東京大学駒場キャンパス
http://researchmap.jp/evzwufhaa-66/#_66

 シェル・エリクソンさん(プリンストン大学大学院/博士課程)による「海から海へ――日本帝国内外の貝類と真珠養殖の普及」は、20世紀前半の日本における真珠養殖産業を主題とするものでした。とりわけ、この時代に東西の二大養殖場とされた、三重の英虞湾と長崎の大村湾における養殖事業が検討されました。1892–1893(明治25–26年)年に佐々木忠次郎が英虞湾・大村湾の真珠の調査をおこなったことを皮切りに、農商務省あるいは今日でも真珠産業で有名な御木本(ミキモト)によって真珠養殖に関する様々な技術が開発されていきます。たとえば、真珠貝に適切な「手術」をおこなうことでうまく真珠をつくらせるようにしたり、真珠貝を別の地域に生きたまま移転させたり、真珠貝にとって外敵となる生物や赤潮に対応したり、真珠貝の住まう湾の水質を変えたりと、多くの試行錯誤がおこなわれたのでした。そして、そのような技術を通じてつくられた日本産の真珠貝は、海外でも高く評価され、世界的な真珠市場において大きな影響力をもつようになったのです。
 このように、日本における真珠の歴史がグローバル・ヒストリーであることを示唆しますが、このことはその歴史を科学技術史と捉えた場合にも同様です。19世紀はしばしば「順化」の時代であったと言われますが、イギリスやフランスなどの帝国の科学者たちは植民地の動植物を自国へと順化させたり、あるいは逆に人間を含む自国の動植物を植民地の環境に順応させることに大きな関心を寄せていました。日本の真珠産業でもまた、そういった意識が1920年代よりあらわれはじめます。たとえば、御木本はあこや貝で開発された方法を蝶貝に応用すべく、1926(昭和元)年にパラオ養殖場をつくったのでした。この事業は、もしかすると帝国科学史の一部であると捉えることができるかもしれません。ただし、このような事業がどれほど国家からの介入があったかについては、まだ詳しい点は明らかになっていないようです。真珠貝のネットワークの広がりが、大日本帝国による植民地支配の膨張と重なっていたのか、あるいは産業の拡大を民間企業が単におこなっていたのかを明らかにすることは今後の課題であるとのことでした。
 谷本先生によるコメントは、より経済史的な観点から日本の真珠養殖をめぐる問題を捉え返そうとするものでした。今回の報告では、「貝」についての輸出産業として真珠のための貝が注目されていましたが、同じ時期にはウェディングドレス用のボタンのための貝の輸出も盛んでした。とりわけ、第一次大戦以降のヨーロッパは、ボタン貝の輸入先をマレーなどから日本へと変更していったのでした。その背景には、日本が労働集約的にそのような産業を安価にかつそれなりの質でおこなうことが期待されはじめていたことがあります。このように、養殖された真珠貝に限らず、国際的な経済市場で日本の産業は注目されていたのです。この点に対してエリクソンさんは、ヨーロッパでは日本の輸出産業に注目が集まりつつあったことには同意しつつも、フランスなどこれまで既に大きな真珠産業があった国からは、日本の養殖真珠に対する反発があったことを指摘します。そこでは、ガラスなどのまがい物の人工的な真珠とは異なるにもかかわらず、日本の養殖真珠が「天然」ではないと攻撃されたのでした。