疱瘡患者に対する宗教・医療行為:佐藤文子「近世都市生活における疱瘡神まつり」(2000)

佐藤文子「近世都市生活における疱瘡神まつり――「田中兼頼日記」を素材として」『史窓』57、2000年、119–130頁。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000413826
※ 上記リンクより無料閲覧・DL可能

 宝暦4–5(1754–1755)年に京都で疱瘡が流行した。一ノ宮下鴨神社の神殿守・田中兼頼の娘・八十も疱瘡に罹患したが、彼女のまわりの人びとがその病気に対しておこなった習俗が『田中兼頼日記』に詳しく記録されている。八十の疱瘡発症が確認されたその日には猩々(しょうじょう)が購入されている。これは疱瘡でしばしば用いられる赤色の髪をもった人形であり、彼女のもとにやって来る見舞客の中にも人形を持って来る者がいたが、それらは神送りという性格が込められていたようである。その間、父・兼頼は京極時に祈祷を頼んでおり、疱瘡をめぐって宗教行為が多くおこなわれていることが確認できる。八十が回復してきたら、医師・森村玄友から笹湯を引くよう指示が出ている。つまり、彼らにとって笹湯は宗教行為であると同時に医療行為であると捉えられていたことがわかる。笹湯をおこなうことは疱瘡から回復したと捉えられていたが、最後の締めくくりとして八十の室内にあった神祭りのしつらえが解かれる。そのしつらえを提供したのは村上宗元なる人物で、彼は疱瘡神との交渉をおこなうことができる職能者と信じられていたようだ。なお、これと似たような役回りは、大坂で風邪の神送りの際に雇われた非人もおこなっており、この時代には疱瘡神への供物を下取りして生業とする者がいたことがわかる。八十が疱瘡を発症してから平癒するまではわずか二週間ほどであったが、その日記からは当時の疱瘡神信仰をめぐる習俗を多く知ることが出来るのであった。

関連文献

病いの克服―日本痘瘡史

病いの克服―日本痘瘡史

酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化 (中公文庫BIBLIO)

酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化 (中公文庫BIBLIO)

たとえば、同書所収の「疱瘡神の福神化」。