慶長16年の地震による被害範囲と諸藩の復興事業:蝦名裕一「慶長奥州地震津波の歴史学的分析」(2013)

 著者より抜刷をいただきました。ありがとうございます。以下、まとめを。

蝦名裕一「慶長奥州地震津波歴史学的分析」『宮城考古学』15、2013年、1–17頁。

 本論文は、「慶長三陸地震」として知られている慶長16(1611)年の地震について、後年の編纂物などの二次史料を手がかりに、その地震による被害範囲と地震からの復興を明らかにするものである。この地震について記した史料としては、当時三陸沿岸を調査中であったスペイン人探検家セバスティアン=ビスカイノの報告書が最も有名であり、現在でも一般にはその地震の中心的な被害地が三陸地域であったと認知されている。しかし本稿は、従来思われていたよりもその地震が広範囲であったことを指摘する。すなわち、北は岩手県宮古市から南は江戸までを地震が襲ったことを、史料に基づき明らかにするのである。それを踏まえ、著者は「慶長三陸地震」という従来の呼び方ではなく、より実態に即した「慶長奥州地震」という呼称を推奨している。
 本論文は「慶長奥州地震」による被害範囲を示すだけでなく、諸藩が地震からの復興事業をいかにおこなったかにも言及している。たとえば、仙台藩では伊達政宗に仕えた川村孫兵衛重吉とその養子・元吉が、拝領していた名取郡早股村(現、宮城県岩沼市)土地を中心に積極的な開発をおこなっている。その一例として塩田開発があげられる。当時の仙台藩に塩田がなく、他藩に頼っていたことを踏まえ、重吉が塩煮技術に詳しい者を取り立て、それに適した土地を探させて、多くの塩場を開発していったのである。この事業は、藩政初期の開発事業であると同時に、津波後の塩害に悩まされる地域の復興事業という二つの側面をあわせもつものであった。

慶長奥州地震津波を記した史料と成立年代(3頁より)

関連文献

仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う!

仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う!