18世紀初頭における唐船対策の転換点:松尾晋一「幕府対外政策における「唐人」「唐船」問題の推移」(2010)

 とある研究会の参考文献として、近世日本の対外政策に関する文献を読みました。

松尾晋一「第7章 幕府対外政策における「唐人」「唐船」問題の推移――「宥和」政策から「強硬」政策への転換過程とその論理」『江戸幕府の対外政策と沿岸警備』校倉書房、2010年。

江戸幕府の対外政策と沿岸警備 (歴史科学叢書)

江戸幕府の対外政策と沿岸警備 (歴史科学叢書)

 天和3(1683)年に鄭氏が降伏した翌年、清朝は展海令を公布し商民の日本渡航を許可した。その結果、長崎へやってくる唐船数が増加したため、幕府は貞享2(1685)年に定高仕法を定めることで、長崎港での唐船の貿易額を抑制しようとした。しかし、それにより唐人らによる抜荷が増加していく。それを受けた幕府は、唐人屋敷の設置をするなどおこない、最終的に正徳5(1715)年の正徳新令によって唐船への強硬政策を完成するのであった。以上は、この数十年にわたる幕府の唐船政策について、主に社会経済的な側面から先行研究が論じてきたところである。
 本論考は基本的にはそういった理解のあり方に共感を示しつつも、事態を詳細にみることでこれまでの見方に修正を加えようとする。とくに、あまり論じられてこなかった、幕府側の唐船対策が宥和政策から強硬政策に変わった時期を具体的に特定しようと試みている。17世紀終わりの展海令によって、たしかに唐船が日本に自由に来ることができるようになったが、実際には中国の対日貿易は進まず、商人・水主たちが窮乏化していくことを著者は指摘する。それに伴い、唐人による抜荷などの犯罪が増加していくが、幕府はある時期まではそういった唐人に対して宥和政策を講じていた。すなわち、唐人が罪を犯しても、日本人のようには裁かれなかったのである。
 しかしながら、増加していく唐人の犯罪は、幕府側を宥和政策のままでいさせることを難しくした。方針転換の契機となったのは、正徳3(1713)年に松浦家領内で起こった、唐船側の不法行為武力行使である。それを聞いた新井白石は怒りをあらわにし、唐人による犯罪は国の「武威」を傷つけるものとして問題化した。そして正徳4(1714)年に、白石は幕府の宥和政策を批判した上申を幕閣におこなったのである。幕府はおおよそ白石の上申を受入ながらも、清との友好関係を保ったまま、唐船の取り締まりを進める路線を模索した。それが、唐人を「海賊」と「大清の唐人」とに区別することで、不逞な「海賊」にのみ強硬的な対応をおこなうとするものであった。実際、1690年代以降、中国大陸沿岸で「海賊」が多く発生するようになっていたことを幕府側は認知しており、それは清側にとっても頭を抱えさせる問題であった。つまり、幕府はそのような事態に則る形で、「海賊」という共通の敵を生みだし、新たな唐船対策を打ち出したのである。これはあくまで唐船対策であったが、それは後の対清政策を強硬路線に導き、享保期の唐船打ち払いを準備することになったのである。

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