明治期に西欧に留学した医師たちのプロソポグラフィー:Donzé "Studies Abroad by Japanese Doctors"(2010)

Pierre-Yves Donzé, "Studies Abroad by Japanese Doctors: A Prosopographic Analysis of the Nameless Practitioners, 1862–1912," Social History of Medicine, 23(2), 2010, pp. 244–260.

 本論文は、1862年から1912年にかけて、医学を学ぶために海外留学した763人の医師に関するプロソポグラフィーである。資料として『日本医籍録』・『日本医事大鑑』・『日本医学博士録』を利用し、この時代の医師たちによる留学の傾向性などを明らかにしている。その際、著者は官費留学生と私費留学生の動向の違いに着目する。先行研究では、官費で留学し、のちに帝大教授となったりするようなエリート医師ばかりに注目が集まっていたが、本稿では同時期に海外へ出向いた多くの私費留学生に焦点があてられている。事実、1862年から1879年に医学を学びに行った45人のうち、官費留学生の数は40人で全体の約9割を占めていたが、1880年代から私費留学生の数が増・割合が増え、1900年から1912年に留学した487人の医師のうち、私費留学生が約7割(332人)を占めるほどになったのである。そして、私費で学んだ医師たちへ着目することで、医学史上の別の問題と接続することができると著者は指摘する。近代日本の医療システムの特徴としてしばしばあげられる「病院の私立化」、すなわち、1880年代半ばより私立病院が大幅に増加し、公立病院よりも私立病院が多くなったことと、私費留学した医師の多さとが関連づけられるのである。
 なお、私費留学した医師たちの動向の特徴として、第一に、彼らは臨床医学を学ぶことが多かった点があげられる。もちろん、この傾向は官費留学生にも少なからずみられるが、1862年から1912年の間で最も医師数が多かった内科学は、医学留学生の全体の約3割(131人)で、その中での私費留学生の割合は実に77.5%を占めていた。外科学を学んだ者も全体の16%(73人)で、私費留学生がそのうち67%であった。一方、実験医学、たとえば、細菌学・疫学・公衆衛生・熱帯医学を学んだ医師は全体の5%(21人)で、そのうち45.6%が私費留学生だった。私費留学生の第二の特徴として、彼らは帰国後に公立の施設で働くことがほとんどなく、開業することが多かったという点である。たとえば、私費留学した医師のうち公立の機関で働いたのは15%以下である。つまり、7割以上が開業あるいは病院につとめていたことになる。彼らは病院長を任されるなど責任ある職をつとめることが多かったが、当時の病院における医者数のなかでは留学したものはわずか0.2%だったことに鑑みると、ごくわずかな数の西洋医によって病院の近代化が進められたということになる。

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