北方情報を得るために幕府が利用した情報ネットワーク:浅倉有子『北方史と近世社会』(1999)

浅倉有子「第二章 寛政改革期における北方情報と政策決定」『北方史と近世社会』清文堂出版、1999年、39–76頁。

北方史と近世社会

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 寛政期の蝦夷地政策については、これまで松平定信による非開発政策が中心に検討されてきた。しかし、その後の幕府では開発論者も多くあらわれていることもあり、幕府の蝦夷地政策を連続的に捉える困難さがしばしば指摘されている。そこで本論文は、寛政期に開発策を提唱した老中格・本多忠籌(ただかず;1740–1813)の動向に着目することで、田沼政権から松平政権とその後の蝦夷地政策を一貫したものとして捉えることを試みている。その際、本論が着目するのは、本多忠籌がいかに北方に関する情報を手に入れたかについてである。そして、彼の有していた情報ネットワークに着目することで、本多忠籌が積極的な蝦夷地開発策を提案していくことになったと指摘している。
 幕府が北方に関する情報を積極的に収集していく契機となったのは、寛政元(1789)年にクナシリ・メナシ地方でアイヌ蜂起事件が発生したことであった。幕府はその事件に関して、松前藩秋田藩、あるいは幕府から蝦夷地調査に普請役として派遣されていた青島俊蔵、さらにはアイヌと交易をおこなっていた飛騨屋など、様々なルートから情報を得ようとした。しかしながら、そういった情報はそれぞれの利害と政治判断が入ったもの、つまりバイアスがかかった情報に過ぎなかった。たとえば、松前藩の圧力によって俊蔵の得た情報は、事件発生の原因は松前藩ではなく飛騨屋にあると書き直されている。一方、そこで名指された飛騨屋は自らに非はないと幕府の尋問に対して回答している。
 寛政2(1790)年、幕府は適切に北方情報を収集出来なかったことを踏まえ、松前藩になびいた俊蔵を処分し、代わりに情報収集役として民間から出羽国最上徳内を登用し、彼を蝦夷地に派遣すると決定した。徳内の登用を後押ししたのは蝦夷地開発論者の本多忠籌であり、徳内のことを蝦夷地やロシアの事情に精通した者として最大限の評価を与えている。一方、定信は徳内が「山師」であるため信用できないと評している。残念ながら、徳内が蝦夷地から幕閣に送った報告書は残っていないが、彼が寛政2(1790)年に著した『蝦夷草子』からは、彼の蝦夷地政策に対する姿勢を見出すことができる。そこで徳内が示したのは、ロシアが蝦夷地や樺太の領有化をねらっていることを危惧するものであった。つまり、定信がロシアを交易目的と捉えたのとは逆の見通しを示したのである。ただし、徳内の考えは完全に彼のオリジナルなものではなく、むしろ、天明期に蝦夷地調査に関わっていた普請役たちと共通する認識であったと言える。その後、寛政4(1792)年にラクスマン根室に来航したことに伴い、幕閣では忠籌を中心に危機感を強めていく。そして、忠籌は徳内ら情報提供者による情報を吟味しながら、その蝦夷地開発政策を先鋭化させていくのであった。

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