対ロシア関係史から見る日本開国史研究の新たな視角:平川新『開国への道』(2008)

 とある近代日本史ゼミのアサインメントとして、日本開国史をロシアとの対外交渉および当時の日本の政治状況と関連づけて論じた文献を読みました。なお、ロシアの日本進出の背景にあった北太平洋交易ネットワークについては、同じく本書の要約を書いているid:kosuke64さんのエントリ(コチラ)をご参照ください。

平川新『開国への道』小学館、2008年、第1〜3章。

開国への道 (全集 日本の歴史 12)

開国への道 (全集 日本の歴史 12)


 本書は対外関係史上の重要な論点をいくつか提示している。まず、江戸時代の日本人知識人が対外情報を主体的に集め、政略に関する判断をしていたということである。安永4(1775)年、オランダ商館長フェイトはロシアが南進を企図しているため、はやく蝦夷地を日本の領国にすべきであるとオランダ通詞に伝えた。それを伝え聞いた江戸在住の仙台藩医・工藤平助は、その情報をそのまま受け取るのではなく、オランダ側の策略、すなわち、日本がロシアと交易することでオランダの利益が減じることを怖れていることをしっかりと見抜いていた。彼が天明3(1783)年に著した『赤蝦夷風説考』では、オランダ通詞からの情報だけでなく、自ら独自に松前藩から情報を入手し、その情報を吟味した上で、田沼意次蝦夷地政策について建言したのであった。その後、幕府は蝦夷地調査に着手していくことになる。
 次の論点として、当時、幕府の対外交渉能力の高さが指摘されている。幕府は西欧列強の軍事力や圧力に対して単に屈服したわけではなく、うまく駆け引きをしながら、交渉をおこなっていたのである。たとえば、そのことは漂流民を送還しにやってきたロシア人ラクスマン松平定信政権下の幕府との交渉にみてとれる。寛政5(1793)年、大黒屋光太夫という漂流民送還を手がかりに、通商の道を開こうと松前にやって来たロシア船であったが、国法の取り決め上、幕府は彼らと松前で正式に交渉をおこなうことはできなかった。そのため、幕府が彼らに対しておこなえるのは、あくまで「宣諭」によって幕府からロシアへ事を一方的に伝えることであり、漂流民送還という彼らの人道的行為に謝礼米を与えることのみであった。もちろん、ロシア側のねらいは通商交渉であったので、このまま易々と引き下がってもらえるはずもなく、最悪、警備の薄い江戸湾に進出されることも懸念される。そこで幕府は、使節をもてなす非公式的な宴会という場で、もし次にやって来るときに長崎に直接向かえば、通商について許されるかもしれないと示唆したのであった。それを聞いたラクスマンらは、手応えを感じながらロシアへ戻ることになった。このように、定信政権下においては、国法の範囲内で、ロシアのメンツも保ちながら、うまく交渉をまとめたと言うことができる。
 さらなる論点として、この時代の人びとに共有されていたかもしれない、朝廷が幕府に優越するという認識があげられる。つまり、江戸時代には幕府の決定権が上回っていたが、民衆レベルではそうは思われていなかった可能性が示唆されている。このことは、文化元(1804)年におこなわれた二度目の日露交渉のあとに広がった噂話にみてとれる。通商交渉のために長崎にやってきたラザーノフ一行であったが、前回の定信政権のときに交易の可能性がほのめかされていたにもかかわらず、このときは半年も待たされたあげく、通商が拒否されてしまった。納得ができない彼らに対し長崎通詞は、最終的に天皇が交易をみとめなかったからではないかと話している。定信の時代には大政委任論によって、幕府の権限の強さを確認していたはずであったが、役人レベルではあくまで外交権を含む最終決定権が天皇にあるとみられていたと考えられるのである。ここで興味深いのは、その先年に発生した尊号事件に関する実録物に、このような幕府に対する朝廷の優越という構図が見られる点である。というのも、この事件では実際には幕府が朝廷の意見を一蹴したのであったが、『中山夢物語』などではそれとは逆に朝廷が幕府を論破したとして描かれている。つまり、この時代は庶民の間で幕府に対する朝廷の優越という認識が、実録物などを通じて共有されていた可能性があると著者は指摘するのであった。
 最後の論点としては、外国からみた日本認識および日本の自己認識についてである。先行研究では、当時の日本の自己認識としては、中国の中華意識になぞらえて「小中華意識」であったと示されることが多かった。しかしながら、この時代のヨーロッパでは、ローマ、ペルシャムガールオスマン・トルコ、ロシア中国などと並んで日本を「帝国」と捉えた記録が数多く残っており、そういった情報が日本が自らを「帝国」と自己認識させた可能性があると著者は指摘する。ヨーロッパの「帝国」日本についての情報は、大黒屋光太夫などの漂流民を通じて日本の蘭学者にもたらされた。たとえば、桂川甫周は『北槎聞略』(1794)のなかで日本が海外では帝国と目されていると記している。そういった情報は、さらに儒者や幕府役人まで広がっていき、幕末には民衆レベルにも伝わった。こうして、日本人の間で日本は「帝国」であるとする見方が受容されたのである。このことは、幕末の攘夷運動を新たな視点で捉えることも可能にする。つまり、これまでは対外危機が幕末の過激な攘夷思想や国粋主義を生みだしたと捉えられていたが、人びとが日本を帝国であると捉える見方がそういった考えを補強することにもなった可能性があると著者は指摘するのであった。さらには、ここで形成された「帝国」日本観が近代的な帝国日本像にどれほど影響を与えていたかを検討することも今後の課題として著者はあげている。