1990年代の医療史研究のサーヴェイ:鈴木晃仁「医学と医療の歴史」(2002)

鈴木晃仁「医学と医療の歴史」社会経済史学会(編)『社会経済史学の課題と展望――社会経済史学会創立70周年記念』有斐閣、2002年、426–439頁。

社会経済史学の課題と展望―社会経済史学会創立70周年記念

社会経済史学の課題と展望―社会経済史学会創立70周年記念

 本論文は、イギリスの医療史を中心に、医者・病院・患者・病気とそのコントロールという四つの主題から、1990年代の医療史の研究動向をサーヴェイしたものである。最初のトピックである「医者」については、1970年代に隆盛を極めた医療専門職論の相対化を試みる研究が提出された。かつての医療専門職論では、医師のもつ権力性や患者と医師の間の非対称的な関係性が強調されてきた。しかしながら、その後の医療史研究は、正統な医師ではないとされる医療専門職の姿を描き出した。たとえば、医療の専門化が進められたとされる19世紀は、医療が一元化されていった時代ではなく、むしろオルタナティブ医療などのカウンターカルチャーが明確にあらわれはじめた時代であった。また、アン・ディグビーは、一方的に、上から医療提供をおこなう医師像にチャレンジした。つまり、19世紀イギリスにおける多くの一般医たちは、開業によって得る賃金だけでは収入が足りず、低賃金で雑多な仕事を引き受けていたのであり、その医療サービスはしばしば買いたたかれていたのである。
 「病院」の歴史は、欧米の医学史において古典的な研究トピックであり、多くの研究が存在する。かつてフーコーが近代の病院を絶対主義国家による「大いなる閉じ込め」の場として語ったが、最近ではその枠組みでは捉えられない病院の実態を明らかにする研究が提出された。ただし、多様な病院の実証的な研究が進みつつも、現状ではそれらを総体的に理解しようとする枠組みが提示されているわけではない。一方、病院に対する過大評価を避けるべく、家庭などのような病院以外の医療ケアの場に対する関心も集まっている。
 「患者」については、医師によって抑圧されたものとして描く「被害者」としての歴史研究から、その主体性を強調する歴史研究へと変わりつつある。その代表的な研究がロイ・ポーターとドロシー・ポーターによるもので、そこでは1650年から1850年までのイギリスにおいて、患者がいつも素直に医師の言うことに従っていたわけではないし、医師にかからず自己治療で済ませてしまうことも多くあったことが明らかになった。そういった研究は主として、患者の日記や手紙、あるいは医師の書いた診療記録を手がかりにした、いわば質的な研究であった。一方、ジェイムズ・ライリーは19世紀後半から20世紀初頭のイギリスに残る疾病保険の請求記録を手がかりにして、労働者たちの受診行動を量的に把握することに成功した。それにより、19世紀の労働者たちが病気に対して敏感で、頻繁に医師にかかったことが明らかになった。
 最後の「病気とそのコントロール」では、病気を細菌やウィルスとして単独に捉えるのでなく、それらの社会・文化的なエコシステム内での働きに着目する研究が提出されはじめている。19世紀イングランドの死亡率低下の要因をめぐる諸研究では、たとえば、栄養状態に注目したマキーオン、社会的介入の意義を強調したスレーターの議論があげられる。しかし、これらは単独の要因に注目することが多いため、他の医療史研究とうまく組み合わせることで、人間身体のエコシステムの近代性をめぐる新たな見方を獲得することが可能になると示唆されている。たとえば、フーコーに重ねるのであれば、その近代性の始原をパノプティコン型の施設に求めることができるかもしれないし、においに対する感受性と公衆衛生の相関を指摘したアラン・コルバンに沿えば、その始原を私的領域に求めることができるかもしれないのである。

関連文献

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