戦前におけるハンセン病療養所の設置運動とキリスト教者:杉山博昭『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』(2009)#1

杉山博昭『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』大学教育出版、2009年、1–82頁。

キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡

キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡

 本書は戦前のハンセン病救済運動のなかでのキリスト教の占める位置について検討したものである。先行研究でもキリスト教者による救済運動について注目されることはあったが、それらは単独の人物だけが取り上げられることが多く、総体としてハンセン病救済運動とキリスト教とがどのような関係にあったかは論じられてこなかった。それに対し本書は、主にハンセン病療養所の管理者であり、キリスト教者であった人々に焦点を合わせる。なお、管理者への着目は、患者の視点を重視しつつある近年のハンセン病史研究に逆行するように思えるかもしれない。しかし著者はあえて管理者に注目することで、いまだにみられる「管理者=隔離政策の推進者=悪」という単純な構図を修正しようと試みる。代わりに本書は、隔離を推奨した療養所の管理者・医師たちの内的な論理を、キリスト教の論理に照らし合わせながら明らかにすることを目標とするのである。
 本書は議論の導入・前提となる「第一章 キリスト教ハンセン病」と、それに続く4つの各論とによって構成されている。第一章では、まずキリスト教各派が設置したハンセン病療養所が紹介される。それらに共通する特徴は、第一に療養所の設立がはじめから意図されたものではなく、偶発的な理由によることが多かった点である。たとえば、1887年にカトリックのテストヴィドが神山復生病院を設立したが、そのきっかけとなったのはたまたま彼が水車小屋で苦しむハンセン病患者を救済したことであった。第二に、療養所は鈴蘭園(1925年設立)などを除いて、基本的には外国人によって設立された点である。たとえば、神山復生病院をはじめとして、カトリックのコール神父と熊本・待労院(1896年設立)、聖公会のハンナ・リデルと回春病院(1895年設立)、長老教会のゲーテヤングマンと東京・慰廃園などがあげられる。第三に、いずれの療養所も小規模で、施設を拡大しようという考えをもっていなかった点である。そのため、回春病院は1941年に、慰廃園は1942年に廃院となるなど、施設の中心的な人物がいなくなったときに、運営の継続が困難になることが多かった。
 では、こういった療養所は国が進めたハンセン病者の隔離政策にどう対応したのか。療養所は基本的に素朴に救済を第一の目的としており、最初から隔離政策に関与しようとすることはまずなかった。しかし、国が隔離政策を推進するなかで、療養所は少なくとも以下の三分類に即した態度を示さざるをえなかった。第一は無関心型で、隔離政策を推進もしなければ批判もしないというものである。このタイプはカトリック系の施設に多く、施設管理者はただ自らの責務を遂行するだけであると考えられていたため、国の政策には無関心であった。しかしそうであるために、容易に国の政策へと加担してしまうこともあった。第二に積極推進型で、隔離政策を基本的に支持するものであり、そのこと協力していることを施設の存在意義として捉えるものである。たとえば、神山復生病院の岩下壮一や鈴蘭園の三上千代がこれにあたる。第三に批判的関与型で、意図して批判していたというわけではないが、その施設での実践活動が国の隔離政策とたまたま異なるものであったということである。たとえば聖バルナバミッションがこれにあたる。
 次に著者が検討するのは、キリスト教系や国公立にかかわらず、ハンセン病療養所で働いたキリスト教者たちの特徴である。まず、療養所における男性医師は、若いうちに施設管理者となり、のちに園長となるようなキャリアを歩むことが多かった。そのため、結果的には隔離政策の現場責任者となってしまった。なかでも、当時の知名度・影響力が抜群で、国公立の療養所に勤務するキリスト教者の典型として著者があげるのが林文雄である。林は当初はキリスト教系の療養所を希望したが叶わず、1927年から全生病院で勤務し、1935年から星塚敬愛園の園長となった。敬虔なクリスチャンであった林は、療養所での患者への伝道を自らの使命と考えていた。一方、女性医師は男性医師のようなキャリアを歩むことはなく、女性としてのまた別の役割が期待されたと著者は指摘する。すなわち、施設が入所者に対して抑圧をおこなうとき、女性たちは慈愛を前面に押し出して彼らの抵抗を和らげることが期待されたという。このような女性医師としては、東京女子医学専門学校を卒業した林富美子(全生病院、長島愛生園などに勤務;林文雄の妻)や松田ナミ(九州療養所、国頭愛楽園など)があげられるが、なかでも有名なのは神谷恵美子である。神谷自身は療養所医師となることはなかったが、戦後は非常勤の精神科医として長島愛生園に通った。なお、以上の男性女性医師以外にも、事務員や看護婦についても言及されているが、とくに後者は史料の残存状況からその特徴を描き出すことが難しい。最後に、療養所での働いたキリスト教者のもっていた共通点として、著者は(1)患者救済という強い使命感、(2)患者へのキリスト教伝道、(3)隔離政策への絶対的な支持、(4)光田健輔への絶対的信頼をあげている。
 さらには、全国のハンセン病療養所内に設置された教会について検討している。国内には国公立、私立にかかわらず30の療養所教会があり、それらはどの教派にも属さない単立教会という形態をとることが多かった。施設内に教会を建てることは、キリスト教会にとってみれば当然ながらそのメリットは大きいが、施設管理者側にとっても、入所者を宗教によって温和にさせ、園内の治安維持をはかれるのではないかという期待があった。プロテスタント系の療養所教会は、超教派・単立であることが多かったが、それにより外部からの協力を引き出しやすくなったというメリットと、財政・牧師の確保を独力でやらなければならないというデメリットがあった。こういった例に属するのは、松丘保養園、東北新生園、多摩全生園、駿河療養所、長島愛生園(ただし、これらの中には、時期によってはカトリック系神父が赴任したケースもある)などである。しかしながら、戦後になると教会を継続していくことが難しくなったことから、日本基督教団に加入する教会もあらわれた。なお、プロテスタントのなかでも聖公会は、社会事業に大きな関心をもっていたこともあり、療養所教会の中で聖公会であったものは多く、それぞれの教会へ聖職者の派遣もスムーズにおこなわれた。たとえば、栗生楽生園や菊池恵楓園などがこれにあたる。カトリック系は、プロテスタント系に比するとかなり遅れて療養所教会が設置されたが、いったん教会が設置されれば、安定的な聖職者の供給がおこなわれた。以上のようにして、療養所教会ではプロテスタントカトリックにかかわらずキリスト教の伝道が進められたが、それによって改宗した入所者たちは、施設での自治会活動の中心的なメンバーになることが多かった。