無教会第二世代とキリスト教ナショナリズム:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#3

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学岩波書店、2013年、121–209頁。

 「第二章 無教会の戦争」では、1910年前後から敗戦までの時期に着目し、内村の構想した無教会が人々にどのように受け止められ、発展させられていくかが検討される。その際、無教会第二世代の人々による取り組みが注目されるが、彼らが内村から継承したのは「紙上の教会」という思想よりも、キリスト教ナショナリズムであったことが指摘される。
 内村不敬事件が起きた頃の一高は、熱烈なナショナリズムをもって内村の態度を批判した。しかし明治末から大正期に入ると、当時の「エリート文化としての教養主義」が、一高を無教会運動へと急速に接近させることになる。つまり、一高や帝大が独自の神学校などをもっていなかった無教会運動への人材供給を担うようになり、逆に無教会運動がアカデミズムにも影響を与えるようになったのである。その後、そういった教養主義文化をさらに拡大させるのを手伝ったのが、1913(大正2)年に創立した岩波書店である。その創始者岩波茂雄(1881–1946)は内村の門下生であったが、無教会主義が既成教団から宗教を解放しようとすることに共鳴し、自らの出版事業をいわば「紙上の大学」として位置づけ、学芸を特権階級の独占から奪い返そうとしたのであった。
 このようにして広がっていった無教会運動であったが、内村の晩節にさしかかると、第二世代の無教会主義者が生まれてくる。内村が60歳となった1921(大正10)年頃には、彼の聖書研究会や雑誌『聖書之研究』の後継問題が話題にあがっていた。その後継者としては、内村の右大臣・左大臣とされた畔上賢造(あぜがみけんぞう;1884–1938)や塚本虎二(1885–1973)が有力視されたが、結局、彼らは内村の集会・雑誌を継ぐことはせず、独立の道を選んだ。1930(昭和5)年に死亡した内村であったが、それまでに多くの無教会第二世代が誕生することになった。彼らもまた、内村と同じように各地で集会を開き、雑誌を創刊することで、無教会運動を展開したのである。
 内村がそうであったように、無教会第二世代もまたその職を辞して運動に没頭したが、矢内原忠雄(1893–1961)のような兼業伝道者もこのときにあらわれている。矢内原は学生時代に内村に学び、いったんは就職したが、1920(大正9)年に帝大に「植民政策学」講師として呼び戻され、1930年前後から無教会キリスト者として積極的に活動するようになった。矢内原と言えば、盧溝橋事件が発生した1937(昭和12)年に戦争を批判したことで大学を追われたことが知られており、しばしばキリスト教精神に基づいて非戦を訴えた人物として描かれてきた。しかし、矢内原の戦争に対する考えを無教会主義思想との関連に着目して捉え返したとき、彼の違った一面がみえてくる。すなわち、矢内原は確かに全体主義を批判していたが、それに対抗して彼が提示したアイディアは「真の全体主義」というまた別の全体主義であったのである。そして、真の全体主義の精神は、教会を脱却した無教会が純化したキリスト教として提供すると考えたのであった。戦時下に入ると、無教会の思想は全体主義ナショナリズムの精神へと交錯するようになる。このときに矢内原が示した日本的キリスト教の思想は、「天皇制国家対キリスト教」というしばしば用いられる単純な構図では捉えることができないだろう。このように、第二世代の無教会主義者たちは内村の「紙上の教会」というアイディアよりもむしろ、そのキリスト教ナショナリズムを継承したのであった。