19世紀後半のアメリカにおける基礎医学・臨床医学の成熟:Numbers & Warner "The Muturation of American Medical Science"(1985)

Ronald L. Numbers and John Harley Warner, "The Muturation of American Medical Science," in Judith Walzer Leavitt and Ronald L. Numbers, eds., Sickness and Health in America: Readings in the History of Medicine and Public Health, Madison, WI: University of Wisconsin Press, 1985, pp. 113–125.

Sickness and Health in America: Readings in the History of Medicine and Public Health

Sickness and Health in America: Readings in the History of Medicine and Public Health

 アメリカ医学は世界に何をもたらしたのか。1820年にとあるエッセイストがこう問うて以来、アメリカ人医師たちはこれに答えようともがき、イギリス、ひいてはヨーロッパの医学からアメリカの医学が独立していると示そうとした。本論文は、このようなアメリカ医学の独立を、基礎医学臨床医学という二つの観点から論じるものである。
 アメリカでの基礎医学研究は19世紀後半まで苦難を強いられていた。1870年代には、ドイツで実験医学を学んだ者たちがアメリカへと帰って来だしていたが、彼らが基礎医学を研究することに専念できるような場所はなかった。この頃はまだ、アメリカの医学はビジネスのためだけのものであり、国家的な支援など受けていなかったのである。そもそもアメリカで医学教育システムが制度化されたのは1870年代以降である。ヨーロッパ諸国と違って、国が医学校設立を規制しなかったことは、1910年までのアメリカで457もの医学校が乱立することにつながった。それほど多くの医学校があったが、それらが全国の医療実践者を増加させることには役だっても、基礎医学に資することはほとんどなかった。また、アメリカの医学校は主として学生からの入学料などで運営費をまかなっていたため、入学に際してのクオリティ・コントロールはほとんどなされなかった。結局、アメリカが基礎医学研究を進めるためには、こういった医学校の運営基盤を大きく変化させる必要があった。すなわち、国家から助成を引き出すことである。それに先鞭をつけたのが、1893年に開校されたジョンズ・ホプキンス大学医学校である。そこには解剖学・生理学・病理学・薬理学などの基礎医学講座が設置され、それに伴い、それら基礎研究に従事できるポジションが国家的に提供されるようになる。アメリカ国家による最初の医学センターが誕生したことで、世紀転換期にはハーバード、ペンシルバニア、シカゴ、ミシガンなどの大学にも医学校が設立されるようになった。その後、これまでとは打って変わって、国や慈善家から医学セクターへの助成が盛んになる。1901年にアメリカ議会は国立衛生試験場(Hygienic Laboratory)を設立したし、ロックフェラー財団は巨額の資金を投じ医学研究機関を設立し、職業医学研究者を誕生させた。やがて、1912年にアメリカ初のノーベル医学賞受賞者があらわれ、アメリカの基礎医学研究は成熟を迎えたのであった。
 一方、アメリカでの臨床医学は、1870年代頃まではヨーロッパ的な治療法との違いを強調することで、アメリカ医学の独立を果たそうとしていた。もちろん、1820年代から多くのアメリカの医師たちはパリに医学を学びに行ったし、そこで学んだ方法を自国にも導入しようとしていた。しかし、彼らはヨーロッパの治療法をそのまま移入しようとしていたわけではなかった。とりわけ、19世紀アメリカにおける外科学は、ヨーロッパからも高い水準にあると認められおり、アメリカ人も自国の外科的な治療法を誇っていた。実際、アメリカ人医師たちは、19世紀初頭に先駆的におこなわれた外科手術を顕彰し、先住民の創造力や開拓者の機知が現在の外科技術の優位につながっていると捉えた。こういった発想のもと、アメリカの治療法はヨーロッパのように普遍性を志向するのではなく、特異性を強調するものとなる。ヨーロッパの治療法はヨーロッパの患者や病気の経験から導かれているのであって、アメリカの患者にはそのまま適用できないと考えたのである。代わりに、患者その人の年齢・性別・民族性・習慣・環境などを考慮して治療をおこなうべきだと主張された。このとき、もしある地域で医療実践をおこなうつもりであれば、その医師はその場所で医学教育を受けるべきだとする考えが提案されるほどであった。しかし1870年代初めに実験医学的な認識論がアメリカへともたらされてから、経験を重視するアメリカ的な治療法が揺るがされはじめる。ドイツ帰りの医師たちは、経験を第一の拠り所とするのではなく、生理学的な実験などに即した治療法を考案したのである。このように、アメリカ独自の医学を追究することから、ヨーロッパやアメリカを区別しない医学的普遍主義に基づいた医学を追究することへと舵をきることで、アメリカにおける臨床医学は成熟したのであった。

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