解剖されたルターとその身体をめぐる内部対立:高津秀之「手術台の上のルターと宗教改革者たち」(2013)

高津秀之「手術台の上のルターと宗教改革者たち――ヨハンネス・ナースの対抗宗教改革プロパガンダ」『エクフラシス = Εκφρασισ : ヨーロッパ文化研究』3、2013年、178–193頁。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/39849
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 ヴェサリウスの『ファブリカ』(1543年)、コロンボの『解剖学』(1559年)という、二つの偉大な解剖学書が出版されてから数十年経ったとき、それらに類似した解剖図が西南ドイツの都市インゴルシュタットで出版された。この解剖図で驚くべきは、そこで解剖されていたのが宗教改革者のマルティン・ルターであったことである。なぜルターの解剖図は描かれたのか。実は、この解剖図は16世紀後半ドイツにおけるカトリックプロテスタントプロパガンダ合戦で用いられたものであった。本論文は、この解剖図を考案したカトリックの説教師と、のちにその図に対抗して別の図案を提示したプロテスタントの風刺作家に注目し、彼らがその図像によって、それぞれの宗派の内部対立を批判しようとしていたことを指摘する。
 「M.ルターの解剖」(1567/8年、ラテン語版)のちに「かくも惨めなルター主義者をご覧あれ」(1568年、ドイツ語版)と題されるビラに付されていたルターの解剖図は、聖フランチェスコ修道会のヨハンネス・ナース(1534–1590)によって考案されたものである。説教師であったナースは元々ルター派であったが、プロテスタントとりわけルター派内部の対立に嫌気が差し、カトリックに転向した。ナースはまさにその解剖図において、彼が目の当たりにしたプロテスタント内部の対立を、純正ルター派やフィリップ派の宗教改革者たちが、ルターの死体を我が物にしようと争う姿として描いたのである。もちろん、カトリックプロテスタントの間のプロパガンダ合戦は16世紀前半から存在していたが、内部対立を批判するという攻撃はそれまでにはなかった。つまり、1547年の仮信条協定締結を契機にプロテスタント内部の対立が顕在化していたからこそ、16世紀後半のビラではそれを批判することが可能となっていたのである。
 では、ナースが批判したプロテスタント陣営は、その図にどう反応したのだろうか。そのビラの出版から2年後、カルヴァン派の風刺作家ヨーハン・フィッシャルト(1546/7–1590)がシュトラースブルクで「跣足修道会の分派と坊主の闘争」(1570/1年、ドイツ語)という木版画を出版した。そこには、ルターが解剖されていたように、ナースの所属する修道会の創始者・聖フランチェスコの死体が描かれている。そして、大勢の修道士・修道女が、彼の体の一部や衣服を奪い合う姿が示されており、そのなかの一人にはナースの名前が付された人物も描かれている。フィッシャルトはカトリック内部にも宗派内部の不一致があると、ナースたちへ反論しようとしたのである。さらにフィッシャルトは、カトリックの内部対立を批判するに留まらず、プロテスタント内部の不一致にも厳しい態度をとった。彼が改宗した1580年前後に、和協条約をめぐってプロテスタント内部の対立が起きていたが、それを目の当たりにしていたフィッシャルトは、カトリックであれプロテスタントであれ、宗派の分裂状態を批判的に捉えていたのであった。

参考

・「M.ルターの解剖」(本論文179頁より)