ロックフェラー財団の登場と中国での医療宣教の変化:Stanley "Professionalising the Rural Medical Mission in Weixian, 1890–1925"(2006)

John R. Stanley, "Professionalising the Rural Medical Mission in Weixian, 1890–1925," David Hardiman, ed., Healing Bodies, Saving Souls:Medical Missions in Asia and Africa, Rodopi, Amsterdam and New York 2006, pp. 115–136.

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

 世紀転換期における細菌学理論の登場や、ロックフェラー財団の強力なバックアップにより、中国都市部の公衆衛生は大きな変化を遂げようとしていた。では、地方ではどういった変化が起きたのだろうか。本論文は、山東省・威県へのアメリカ長老派教会の医療宣教を事例に、20世紀初頭に医療宣教をおこなう論理が転換したことを論じる。すなわち、医療宣教師たちは自らの医療行為を宣教の一手段と捉えるのではなく、医療それ自体を目的として捉えるようになった。このことは宣教と医療の乖離を推し進めたように思えるかも知れないが、実のところ、ロックフェラー財団の登場により、現地の宣教団はこれまでに増して宣教医たちを後押しするようになった。
 地方のなかでも豊かな経済力をもっていた威県は、その住民が保守的であったことから、宣教師の伝道に対しては否定的であった。そのため、多くの宣教団はそこに永続的なステーションを置くことをしなかったが、それにもかかわらず、アメリカ長老教会は1881年にそこにステーションを置くことを決定する。1883年には宣教師居住地の医師としてやって来たホレス・スミスは、敵対的な中国人に対して医療提供をおこなうことで、彼らに何とか伝道をおこなおうとした。その後、現地人クリスチャンの手助けもあって、威県に学校や病院、聖書学校やクリスチャンスクールを順調に建設していくことができた。威県は山東省ミッションの中でも最も大きなものとなっていったのである。
 伝道に励んでいた医療宣教師たちであったが、1900年頃から、現地人の魂を癒やすことより、身体を治癒することに専念したいと思うようになっていた。折しも1886年に、とある英字雑誌に「衛生による救済」という記事が載り、その著者によって中国人の家庭の不衛生が改善されるべきだと主張された。このとき、それまで家庭への関与を全くおこなっていなかったことに気づいた医療宣教師たちは、公衆衛生を整備していくことの重要性を認識したのである。1903年に威県にやって来た医療宣教師チャールズ・ロイズは、まさに公衆衛生事業をその地で推し進めようとした。彼がまず取りかかったのは、感染症が起きたときにそれが広がらないように、隔離病棟を病院につくることであり、その他にもベッド数の増加などを計画した。ロイズはそれらの費用の拠出を山東省ミッションに求めたが、そういった提案に対し伝道委員会をあまり快く思わなかった。そのため彼は、また別の財源として1914年に設立されたロックフェラー財団の中国医療委員会に注目した。ロイズは現地人がとくに苦しむ結核の治療法を新たに導入する必要を説き、中国医療委員会に資金提供を訴えた。しかし、ちょうどロックフェラー財団の調査団が現地にやって来たとき、川の氾濫により彼の病院が壊滅してしまったため、助成金の一件は流れてしまった。
 ロックフェラー財団の登場によって、医療宣教師たちは伝道ではなく医療に集中することが可能になったが、それは同時に彼らの所属していた伝道委員会の考えを変えるきっかけにもなった。ロイズより遅れて威県にやって来たハイムバーガー医師は、新たな病院建設のためにロイズの計画を簡素化した企画を提案した。しかしながら、査察に訪れたロックフェラー財団の調査団は、ハイムバーガーの現地での活躍は認めながらも、長老教会などが彼を十分にバックアップしていないという問題点を指摘し、助成金支給を見送った。つまり、ロックフェラー財団が資金提供をおこなう条件とは、その事業に対し現地組織のバックアップが既にあり、そのためにその事業が未来あるものとなると予期させるかどうかであった。そのことに気づいた長老派教会は、中国各地の病院を未来あるものとすべく、アメリカ国内での「100万ドルキャンペーン基金」に乗り出した。1917年にピッツバーグのシェイディサイド長老派教会で集まった1万ドルが威県の新病院へと寄付され、さらに同教会は寄付を集め、1925年には威県にシェイディサイド長老派病院が設立された。この新しい病院は、多くの近代的な衛生設備を備えており、その手術室には既に亡くなっていたロイズの名前が冠されたのであった。