精神分析の凋落と精神ケア市場の競争激化:ショーター『精神医学の歴史』(1999)

エドワード・ショーター「第八章 フロイトからプロザックへ」『精神医学の歴史――隔離の時代から薬物治療の時代まで』木村定訳、青土社、1999年、343–387頁。

精神医学の歴史―隔離の時代から薬物治療の時代まで

精神医学の歴史―隔離の時代から薬物治療の時代まで

 本書の最終章である第八章では、精神分析の退潮とともに、精神科医の「科学的」な診断・治療への再帰が描かれている。しかしながら、ソーシャル・ワーカーや臨床心理士、さらには製薬業界の参入によって精神病をめぐるマーケットの拡大したために、精神医学における科学性が歪められ、混迷を極めていくことになったと指摘されている。
 19世紀の精神医学が焦点をあわせたのは入院患者であったが、20世紀終わりの精神医学はそれまでファミリー・ドクターに診てもらっていた患者あるいは全く医者に診てもらえなかった患者に関心をもちはじめた。精神医学者たちは、従来考えていた病理の閾値を可能な限り下げることで、より多くの患者を獲得していこうとしたのである。たとえば、戦闘による心的外傷をあらわしていたはずのPTSDは、今やショッキングな映画を見た後の子どもたちの状態をPTSDという言葉で表現されるようになっている。このような事態が起きた背景には、一方で精神医学のマーケットにおける競争の激化があった。それは、医師資格をもたないソーシャル・ワーカーや心理士といった新たな参入者の増加によってもたらされた。たとえば、1951年時点ではわずか2000人にすぎなかった精神科的ソーシャル・ワーカーの数は1985年には5万5000人にまで跳ね上がったし、心理士たちも、複雑な治療体系を必要とせずに精神療法がおこなえるとする『来談者中心療法』(1951年)の出版を機に、その数を増やしていった。その結果、1990年までには臨床心理士とソーシャル・ワーカーの数は精神科医の数を大幅に上回ることになった。もう一方では、そのような精神ケアを要求する人々が増加したこともまた、精神科医の診断の閾値を下げることにつながった。ただし、ここでサービスの提供を訴えた人々は、実際に精神医学上の問題をもっている病者というよりむしろ、そういった疾患を経験していないにもかかわらず自らの生活が不幸であると捉えている人々であった。そのため、実際に治療を受けるべき人はそれほど精神科医にはかからず、何ら障害を抱えてない者が多く病院へと押し寄せたのである。
 病気を恣意的に拡大していった精神医学であったが、そもそも精神医学はほかの医学に比べると疾病の分類が恣意的になりやすい問題を抱えていた。というのも、精神医学では病気の原因が確定できないことが多いために原因よりも症状に即して病気を診断することが一般的であり、そのために様々な症状を一つの病気にまとめあげる際には常に恣意性と困難が伴っていたのである。それに対する不満は診断に無関心な精神分析の隆盛により、長い間露呈することはなかった。しかし、治療成果の統計的な証明を拒否してきた精神分析が疑問視されるようになり、同時に、他領域から市場の独占を揺るがそうとしてくる者があらわれるようになるに連れて、その診断法をより科学的なものにしようという機運が高まってくる。とりわけ、それまで支配的であった精神分析的診断法から、「科学」を奪い返すメルクマールとなったのは『精神障害の診断と統計のためのマニュアル DSM−III』(1980年)の編纂である。ここにおいて、これまで精神力動というタームによって説明されていたものが、実証主義的に説明されるようになったのである。こうして精神分析から解放されたことで、「科学」へと再帰することになると思われた精神医学であったが、皮肉なことに精神医学はさらに方向性を見失い、混迷をきわめることになった。そこでのキーワードもやはり「市場」である。
 フロイトの時代が終わり、科学的な精神医学が追求されるようになったとき、それを最初に後押ししたのは薬学的知識であった。しかしそのマーケットの旨みに製薬会社が気づいたことで、精神薬理学と呼ばれる新たな分野は再度非科学的な特徴を示し始めるようになった。科学的な精神薬理学の時代には、ミルタウン(1955年;抑うつ薬)やヴァリウム(1963年;抗不安薬)、あるいはベンゾジアゼピンなどの臨床効果の高い医薬が開発され、これらは一般にも多く出回った。ここにおいて、これまで同情的なラポールで患者を慰めることが精神科医の美徳とされていたのが、薬によって病気を治療する方がよっぽど患者のためになると精神科医が実感するようになったのである。しかし、人々がそういった精神薬に殺到するのをみた製薬会社は、精神医学自体の診断をゆがめることで、自分の市場に適したものへと精神医学を変えようとした。すなわち、その治療薬があると宣伝することで、これまで一般には何の問題とされていなかった疾病を人々に問題であると意識させようとしたのである。こういった文脈であらわれたのが、ザンタックという潰瘍薬に次いで世界で二番目に売れている薬、プロザックである。この精神薬はまた別の抗うつ剤であったが、しかしながらそこではうつ病の範囲が一気に拡大されている点が特徴的である。1987年に米国食品医薬品局(FDA)は抗うつ剤としてのプロザックの使用許可を出したが、1990年に米国・マクリーン病院の二人の研究者がそれがうつ病だけでなくパニックや強直症(持ち物を落とす発作)にまで効果があると示唆する論文を発表した。そこでは、そういった症状に共通する「感情圏障害(ASD)」という言葉が用いられ、世界の人口の三分の一がASDにかかっていると述べられ、その後その言葉は人口に膾炙し、アメリカの精神科医受診者の半分がASDであるとされるまでになった。こうして、プロザックは単なる抗うつ薬としてではなく、人間の困難や不安をも含む「うつ病」への薬として、いわば万能薬のようにとらえられるようになっていったのである。二百年の間に、精神科医の役割は治療的アサイラムの治療者からプロザックの門番へと変化したのであった。