1900年前後のドイツにおける言語治療学:梅原秀元「学校と発話障害児」(2014)

梅原秀元「第2章 学校と発話障害児」山下麻衣(編)『歴史のなかの障害者』法政大学出版局、2014年、49–81頁。

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

 本論文は、先行研究で一定程度論じられてきたろう者の歴史研究に対し、聴覚を部分的に喪失した児童に関する歴史に注目を喚起している。とりわけ、1900年前後のドイツにおける「つかえずに話せない」子どもに対して、どのような対応がおこなわれていたかについて、まず当時の言語治療学に関する支配的な学説を概観し、その後、デュッセルドルフにおける実際の言語治療コースの事例を検討している。
 19世紀後半のドイツでは、発話障害に関する原因や治療法について、心理的アプローチを取る方法と生理的アプローチを取る方法が対立していた。前者については、バーデン公国やブラウンシュヴァイク公国あるいはオーストリアのウィーンにおいて盛んで、その代表者として精神科医オズワルト・ベルクハンがあげられる。一方、後者はプロイセンにおいて主流であった。なかでもグッツマン親子の活躍は目覚ましく、彼らによって発話障害と身体器官の異常が結びつけられて考えられるようになった。父アルベルトは、発話障害を呼吸・発声・発音を強化する練習を通じて克服できると考え、1879年にその理論を書籍にまとめている。息子ヘルマンは医師として父の理論を医学的に基礎づけようとした。そして1905年にはベルリン大学医学部に言語治療学のコースを設置することに成功し、医学の一分野として言語治療学を確立するに至った。なお、プロイセン文部省も彼ら親子の理論を早くから支持し、1884年にはアルベルトの方法を各地域に薦めている。
 グッツマン理論はプロイセンデュッセルドルフ市にも広がっていったことが、市立公文書館の未刊行史料などからも確認できる。まず養護学校では、既に1886年から言語治療がおこなわれていたが、1895年にグッツマンの方法が養護学校教師に採用され、本格的な言語治療が進められるようになる。その年に試験的なコースが開始され、翌年から本格的にはじまった言語治療コースには30人の児童が参加し、1913年になると120名が参加するまでになったという。そこで主導していた教師ホリックスの著した本からは、普通に話すことは人間的であり、精神が普通であることの証左であるという考えが示され、養護学校における言語治療の重要性が指摘されていた。一方の民衆学校(市民層の子弟が集ったギムナジウムとは違い、多様な背景をもつ子どもが集まっていた)には、養護学校開設後も多くの難聴児が通っていた。しかし、そういった児童のためのコースが試験的に設置されたのは1908年まで待たなくてはならなかった。その翌年には常設コースとなり28名の児童が参加し、読唇術の授業を受けた。ここには、18世紀後半のヨーロッパにおける聴覚障害児教育の傾向がみてとれる。すなわち、フランス語圏では手話および文字によるコミュニケーションが支配的であったが、ドイツ語圏では音声のコミュニケーションが重視されていたために、読唇術の訓練が課されたのである。
 なお、1860年代にデンマークの医師ヴィルヘルム・マイヤーが扁桃腺炎が難聴をもたらすと指摘して以来、難聴あるいは発話障害は扁桃腺の病気と関連しているという考えが広がっていった。たとえば、1913年にデュッセルドルフ民衆学校の言語治療教師が、とある児童に対しコースに参加するには扁桃腺を切除するようにと要求した。両親および彼を診断した医師は手術の必要性は無いと否定したが、教師は手術を受けなければ受講させないと言い張った。このことは、扁桃腺と発話・難聴を関連づける考えが人々に広がっていたこと、また、言語治療の教師が専門職として確立していたことを示唆している。