工作機械による互換性部品の開発というアメリカ式製造方式:橋本毅彦『「ものづくり」の科学史』(2013)#2

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史――世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫、2013年、54−109頁。

 「第二章 工場長殺人事件を越えて──「アメリカ式製造方式」の誕生」では、駐フランス公使時代にフランスの標準化技術をみて驚いたジェファーソンがそれをアメリカに持ち込み、アメリカ独自の製造システムが誕生する経緯が示される。第一章でみたフランスでは、標準化に関する発想は生まれていたが、そういった技術が現場で労働者たちによってうまく進められたわけではなかった。なぜなら、労働者たちが標準化技術を実践するには手作業だけでは難しく、機械の助けを借りる必要があったからである。それを実行しえたのがアメリカであり、その中心地となったのがマサチューセッツ州スプリングフィールド工場(1794年設立)と現在のウェストヴァージニア州のハーパースフェリー工場(1798年)という二つの工廠であった。
 当初、それぞれの工廠で互換性をもつ銃の部品の製造が進められたが、その結果は明暗を分けた。スプリングフィールドでは技術者トマス・ブランチャードが開発した機械によって、これまで手作業では1時間かかっていた銃床の切削加工作業がわずか1分でできるようになり、作業の効率化に成功したのである。一方のハーパースフェリーでは、前近代的な労働形態が維持されたままであり、工場の機械化・近代化が遅々として進まなかった。そんななか、新たにハーパースフェリーの所長に就任した人物が、工廠の規律化を押し進めようとした結果、労働者から反発に遭い、殺害されるという事件にまで発展してしまう。そのため、これを機にハーパースフェリーの新たな所長として規律を重んじる軍人が招聘され、専用工作機械の導入、機械による互換性部品の製造が進めらたのであった。
 その後、両工廠では互換性部品の製造技術が発展し、その技術は周辺の民間工場にも伝播していき、全米中に広がっていく。「専用工作機械」による「互換性」のある部品をつくるという「アメリカ式製造方式」はここに完成をみる。イギリスの技術史家ロルトはこのような事態に「歴史の皮肉」を読み取っている。というのも、独立戦争を契機にアメリカへの機械輸出を禁止したイギリスであったが、アメリカは今度はフランスから技術を学びながら独自の製造技術をつくりあげ、その後、クリミア戦争開戦を目前にしたイギリスはその製造方式が是が非でも導入すべきものになっていたからである。
 「第三章 工廠から巣立った技術者たち──大量生産への道」では、アメリカの二つの工廠で生まれた標準化技術が、工作機械技術の発展に即して、いろいろな製造技術に応用されていく過程が示される。しかしそれを示す前に、そもそもなぜ産業革命発祥の地イギリスが、後進国アメリカの開発したコルト式拳銃およびその製造方式に驚嘆することになったのか、そしてイギリスではなぜそれらが生まれなかったのかが問われる。一つに、イギリスの優秀な銃製作者たちは、発注が変動しやすい軍からの兵器製造を請け負うことを避け、貴族から求められる狩猟用のオーダーメイド銃を精密につくりあげることを好んでいたことがあげられるだろう。また別の理由としては、ヨーロッパ諸国ではラタイド運動にみられるような、労働者の機械への反発が根強く、一方のアメリカでは労働力が不足していたため、機械を活用せざるを得なかったという状況があげられる。後者の見方は、ロンドン万国博覧会の2年後におこなわれたニューヨーク万国博覧会を視察したイギリス人ウィットワースも述べているものであり、のちの経済史家の間でも採用される古典的な見方である。ただしここで注意しなくてはならないのが、アメリカ流の銃製造方法がそのままイギリスで広がっていったわけではないということである。もちろん、クリミア戦争時にはイギリスはアメリカ式製造法に大いに注目したが、1858年に戦争が終結すると、互換性技術に基づく銃の大量生産計画は中止となり、市場ではこれまでのような伝統的な銃の需要が再び高まったのである。
 今一度話はアメリカに戻り、スプリングフィールド工廠によって生み出された互換性技術が、1830年代から南北戦争開戦までに、その周辺に広がっていくことが示される。「工廠方式」と呼ばれるこの技術は、銃を製造する工場だけでなく、その他の機械・道具を製造する工場、さらには民間企業にまで採用されて行くことになる。たとえば、ウィルコック&ギッブス社は工廠方式に熟達した他企業の技術者を招聘することで、ミシンをつくるための工作機械の製造を押し進めた。さらなる例として、自転車を工作機械を用いてつくる方法を開発したポープ社があげられる。それらからやや遅れて1903年に設立されたフォード社は、自転車産業でうまれていたプレス加工技術を活用し、自動車製造の機械化、互換性のある部品の開発を進めた。さらにフォード社は、流れ作業による製造方式を採用することで、自動車を効率よく、大量生産する方法を開発したのであった。こうして1910年にフォード社はT型車の大量生産を開始することになる。

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