患者の意向に規定された18世紀イギリス医療:Jewson "Medical Knowledge and the Patronage System in 18th Century England"(1974)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医者と貴族の関係性に注目し、当時の医療について論じた文献を読みました。

N.D. Jewson, "Medical Knowledge and the Patronage System in 18th Century England," Sociology, 8, 1974, pp. 369–385.

 著者のジューソンは、18世紀イギリスにおいて発展した医学理論が当時の医師と貴族との関係性によって大きく規定されていたと指摘している。すなわち、疾病分類や診断法、病理学投薬など様々な場面において、過度なほど患者の意向を踏まえた医療が発展したのである。さらにジューソンは、マルクス主義科学史観に基づき、イギリスにおいて医学の科学化を遅らせた要因としてパトロンから医者に対するプレッシャーがあったと指摘している。
 まず、当時のイギリスにおける医師と貴族の間の非対称的な関係性が指摘される。医師の身分は、内科医・外科医・薬売りの三つに分類され、最も地位の高い内科医はジェントリであることが多かった。その内科医はジェントリとして自らの地位を保障するために、自分よりさらに身分の高い貴族階級の患者を獲得することに奔走していた。当然、医師は自らの地位が脅かされるのを恐れて、自分より身分の高い患者、すなわち貴族の気持ちに即した医療行為をおこなった。たとえば、まずはこの時代の疾病分類は、患者が訴える症状に基づいたものがとくに発展していった。次に診断法については、患者が言うままに、精神的な不調と身体的な不調を区別しない一元論的な診断がしばしばおこなわれた。その結果、この時代には心気症などの心因性の疾患として診断されることが多くなった。さらには病理学においてもまた、疾病の病因を身体組織に求めようとするような傾向はあらわれず、患者の見立てにあうような推測的な病理学が発展した。最後に治療の場面では、患者からお金をもらうことを正当化するために、ただ単に患者の自然治癒を待つのではなく、患者身体に積極的に介入する英雄的な治療法がおこなわれた。
 さらにジューソンは、18世紀のイギリスの医師たちが貴族階級の患者の影響を強く受けてしまっていたがために、医学の科学化を進展させることが出来なかったと指摘する。たとえば、19世紀初頭のフランスでは病理解剖学による医学の科学化が進められつつあったが、イギリスでは解剖学が医師の関心を集めることはなかった。というのも、当時のイギリス大衆は解剖という行為に対して忌むべき感情を抱いており、それに関わる医師もまた同様の感情をもって捉えられる恐れがあった。そのために、患者側からの評判を大事にするイギリス人医師にとって解剖は避けるべきことであった。その他にも、医師間の苛烈な競争が、自分の開発した医療技術を他人とは共有しないという、科学の公開性と対立する事態につながったし、そういった秘匿性のために、知識を共有するような医学者組織が設立されることもなかった。結局のところ、医師たちが貴族の機嫌を取らなくてはならなかったのは、当時の医師のキャリアが関係していた。すなわち、18世紀には患者が医師の良し悪しを判断するとき、その医師の立ち居振る舞いなどの個人的な特徴を大いに参考にしていた。というのも、この時代には医師の質を保証するような機関がなかったために、患者は学会などの権威に基づいて医師を選択することができなかったのであり、医師もまた自らを積極的に患者に売り込まざるをえなかったのである。