第115回日本医史学会学術大会(2014年5月31日–6月1日、於:九州国立博物館)

 第115回日本医史学会学術大会に参加して参りました。今回の大会は、先日九州大学を退官されたヴォルフガング・ミヒエル先生を会長に、多くの報告がなされました。以下に、いくつかの報告について簡単に紹介を。なお、以下の要約は、当日のTwitterでのまとめに少し手を加えたものです。

第115回日本医史学会学術大会、2014年5月31日–6月1日、於:九州国立博物館

・安西なつめ「ニコラウス・ステノによる脳の解剖学講義――17世紀の解剖学への批判と提言」

 しばしばデカルト批判の部分が注目されるステノの解剖学講義であるが、実際のところ、ステノはデカルト個人を攻撃したというより、当時の解剖学のあり方全体を批判し、解剖学という分野のあるべき姿を提示しようとしていた。ステノは先人が書物の知識の確認するだけで解剖学を研究していたことを批判した。代わりに採用すべき方法として、自身の解剖による詳細な観察・仮説と経験の区別・解剖方法の変更・他の動物での確認という4つの方法を提示したのであった。

・柳澤波香「エヴェリーナ・ロンドン小児病院の設立について」

 オーストリアのフェルディナンド・ロスチャイルドは、1866年に妻・エヴェリーナを鉄道事故で死亡したことを受け、妻の名を関した小児病院を設立した。ロンドンブリッジ近くの貧困地区に設置されたこのボランタリー・ホスピタルは、(1)複数の寄付者によるのではなく、ロスチャイルド一人によって設立されたこと、(2)既存の施設を病院にあてるのではなく新築でつくられたこと、という二つの点で他のボランタリー・ホスピタルとは異なっていた。この病院では、当時有名であった医師も多く診療にあたったという。その後、1948年のNHS施行にともない、近隣のガイ病院に統合され、エヴェリーナの名が病院からなくなった。しかし、2005年にエヴェリーナ・ロンドン小児病院が再設立され、慈善の精神を引き継いだ病院が今日復活したのであった。

・香戸美智子「英国の輸血機構と血液型群の研究について」

 1920年代イギリスにおいて輸血に関する組織が設立されはじめた。その先駆者Percy Lane Oliverは、1921年人道主義にもとづき輸血に関するボランティア組織を設立した(なお、1920年代のアメリカでは血液の売買も進んでいった。そして、1970年代のアメリカでは、売血から献血への組織づくりが進められた)。戦間期・1930年代に、J.B.S. Haldaneらによって血液型群の研究が進み始める。1930年代後半にはDame J.M. Vaughanが英国の輸血組織を発展させた。その発展の背景には、保存血の登場によって、一般市民への血液提供ができるようになったことも大きかった。その後、血液貯蔵施設がロンドンにもつくられ、ロンドン大空襲の際には多くの人命を救った。なお、血液型を民族と関連づけようとする研究もこの時期に進められた。

・町泉寿郎「海上随鴎(1758〜1811、稲村三伯)の医書について」

 『洋注傷寒論』(写本、カリフォルニア大学サンフランシスコ校蔵)をはじめとする海上随鴎の医書は、人体部位をあらわす特異な作字を多くおこなっていたという特徴を有している。随鴎は西洋医学を単に紹介するのではなく、それと漢方医学を折衷しようとこころみていた。このやり方は、同時代の杉田玄白らのやり方とはかなり異なるものであった。

・アンドリュウ・ゴーブル「桃山時代の家庭医学:本願寺西御方(1562–1616)を例にして」

 本願寺西御方を治療した医師の数は8人いた。専任医師は山科言経で、25年間にわたってほぼ毎日往診している。その他には曲直瀬玄朔・正琳の名もあったようである。その西御方にみられる、桃山時代の家庭医学の特徴はどのようなものであったのだろうか。著者が言うには、その最大の特徴は「自療」(自分で治療をおこなう)であり、自療には以下の3つの特徴があった。(1)患者は自分の病歴を記録し、医師に提供しており、その記録はメモ程度のものから詳しい目録まで様々であった。またその記録は、西御方自身に関する病歴録だけでなく、子ども・乳人・女中のものも含まれていた。(2)薬については、第一に処方名を知ることで、病名に応じて薬を服用していたこと、第二に自分の薬で自分で調合・製薬していたこと、第三に生薬を購入していたようである。(3)薬のなかでも「持薬」が家庭医学においてもっとも特徴的であった。「持薬」とは、専任医師が患者に、普段の体調や持病を管理するために常備した薬であった。

・大道寺恵子「中国医学「近代化」の試み「蘇州国医医院(1939–1941年)の事例を基に」

 1939年、中華民国維新政府下で陳則民が蘇州国医医院という病院を設立した。その病院には医師・看護師あわせて30人ほどが勤務しており、その入院患者の男女比は8.5:1.5であった。中華民国維新政府は、貧民に施療すること、および衛生防疫の補助としての機能すること、をその病院に期待していた。しかし、蘇州国医医院の史料をみると、その病院では必ずしもそういった機能が果たされていたわけではないことがわかる。第一に蘇州国医医院の入院患者は、そのほとんどが働き盛りの男性であったし、警察関係者・給与所得者が多かった。その背景には、薬価の負担が高かったことなどがあげられるだろう。第二に、記録からは衛生行政の補佐に関する記述はほとんどみられない。入院患者の記録から他にわかることは、二週間ほどの短期入院が多かったこと、傷寒論を重視しながらも西洋の診断名が比較的多かったことなどがあげられ、後者については医学史研究でしばしば議論されるMedical Pluralismという観点からも議論できるかもしれない。

・小田なら「ベトナム南北分断期(1954〜1975年)南北ベトナムにおける伝統医学の制度化」

 現代ベトナムは南北分断期における北ベトナムの流れをくむため、ベトナム医療史では南ベトナムの動向が軽視されがちであった。ベトナム医療史において伝統医学の位置付けが議論されるときも、南ベトナム医療史は偏った見方で論じられてきたのである。たとえば、ベトナム医療史ではしばしば、北ベトナムが伝統医学を公的医療制度に組み入れることに成功したのに対し、南ベトナムは西洋医学(とりわけアメリカによる西洋医学)になびき、伝統医学を排除しようとしたと言われる。実際、北ベトナムでは早くは1957年から伝統医学を国の医療制度のなかに取り入れており、伝統医学は医療の選択肢の一つとして認識されていた。しかし北ベトナムと同様に、南ベトナムもまた、ある時期は伝統医学をなんとか取り入れようと試みていたのである。たしかに分断期がはじまった頃は、南ベトナムは伝統医学を限定的にとらえていた。つまり、1943年にフランス植民地政府が出した布令を継承したのである。しかし1960年代に入ると、南ベトナムでも伝統医学の是非の議論が進み、1970年代には伝統医学の「科学化」が叫ばれるようになったり、ベトナム伝統医学の祖を顕彰したりするようになっている。つまり、南ベトナムでも伝統医学との共存ははかられていたのであって、この側面はベトナム医療史ではほとんど注目されてこなかったのであ
る。