大陸をつなぐルートから研究対象へと変わる海洋:Reidy & Rozwadowski "The Spaces In Between"(2014)

 Isis, Focus読書会 #14 "Knowing the Ocean: A Role for the History of Science"での担当箇所のレジュメをアップします。

Michael S. Reidy and Helen M. Rozwadowski, "The Spaces In Between: Science, Ocean, Empire," Isis, 105(2), 2014, pp. 338–351.
http://www.jstor.org/stable/10.1086/676571
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 帝国科学の歴史は、帝国とその植民地における科学的営みについては多く記述してきたが、その間にある「海洋」に対しては全くと言ってよいほど関心を払ってこなかった。確かにある時期までは、海は新たな植民地までの単なるルートに過ぎず、それ自体が人々の関心を集めることはなかった、そもそも海は占有の対象であるとも考えられていなかった。しかし、19世紀中頃より科学者の間で、海洋それ自体が研究の対象になり、科学者たちは海に関する科学知識を積み上げていくことになる。このときに専門化していった海洋学の知識は、帝国を押し広げようと大海に乗り出した船乗りたちの大きな助けとなったし、そのような事実が科学知識に対する国家的な支援を引き出すことになった。つまり、これまで科学史においてほとんど注目を浴びることがなかった海洋学の歴史においてもまた、19世紀の他の科学分野と同じように、専門化・国家による援助・科学者の新たな自己認識などの現象が確認できるのである。
 もともとの海に対する関心は帝国主義に基づく商業的・政治的なアジェンダとともにはじまったが、そういった関心はすぐに科学や文化を取り入れることになる。19世紀において、海洋に関する知識増大に拍車をかけたのはイギリスとアメリカである。両国では産業化に伴って、遠方の海に行くことが可能になっており、海底電信ケーブルの敷設も進められていた。この時期に、海が単なるルートから研究対象として徐々に認識されはじめたのである。そして、海に対する関心が、空間的なアプローチと詳細な測定法が結びついたとき、海洋学は他の科学との関連性を高めていく。
 海洋の科学知識に関心をもった人々は、世界は海によってつながれているとするフンボルトの考えに共感していた。イギリスではヒューウェル(William Whewell)が空間的なアプローチという新たな方法論に基づいて潮汐研究をおこなった。それまではある地域の潮汐表を通時的にみることで潮の満ち引きを導いていたため、その計算が複雑になることがしばしばであった。しかしヒューウェルは異なる場所の比較という視点を導入したことで、一つの地域の潮汐表から他の地域の潮汐表を簡単に推論することを可能にした。なお、ヒューウェルは「科学者」という言葉を造語したことで知られるが、彼は科学者をこのようなプログラムを実践する者として捉えていた。
 19世紀中頃のアメリカでは、モーリー(Matthew Fontaine Maury)が国家による援助を受けて、海底の深浅測量を進めていった。このような測量は同時に深海生物に対する関心を高め、1858年にはイギリスの海洋調査船チャレンジャー号が海洋の生物調査をおこなった。海洋生物学に対してとくに大きな貢献を果たしたのはウォレス(Alfred Russel Wallace)であろう。彼は『動物の地理的分布』(1876年)において、地域ごとに番号を付して、その地域を色分けし、世界中の動物の分布を示した。彼の発想の独創的な点は、これまでにおこなわれてきた陸上の動物に対する関心を、海の視点から捉え返すことを提案した点である。すなわち、動物の分布は浅い海底でつながっていれば異なる大陸でも似た分布となり、深い海底であれば異なる分布となることを示したのであった。