患者記録から描かれる医学史:Risse & Warner "Reconstructing Clinical Activities" (1995)

Guenter B. Risse, John Harley Warner, "Reconstructing Clinical Activities: Patient Records in Medical History," Social History of Medicine, 5(2), 1995: 183-205.


 医学史研究において、ケース・ヒストリーと呼ばれるタイプの史料群がある。16世紀以降特に増えるこの種の史料群には、患者記録、カルテ、臨床経過グラフなどがあり、過去の人口統計というマクロな情報から、患者の病院における日常といったミクロな情報を提供してくれる。そのため、ケース・ヒストリーは医学史において最も重要な史料であるといってもよい。
 本論文はこれまでなされてきたケース・ヒストリーを用いた研究のサーベイである。前半では、ケース・ヒストリーという史料の多様性を示しつつ、そこから導かれる医学史上の重要な論点について紹介される。後半では、ケース・ヒストリーをみることで可能となる、医学史と他研究領域との接続について考察されている。以上のような議論を通じて、著者は、ケース・ヒストリーによって知的コンテクストと社会的コンテクストの接続を試みるのであった。

 まず、ケース・ヒストリーによって、どのようなことがわかるのか。そもそも、ケース・ヒストリーとは、患者の記録といったものだけでなく、医師の給与明細や薬剤の料金表なども多様な史料群であるが、そこからは医療行為のパターン、入退院のプロセス、患者の不満、病理学検査の結果、医師の仕事量の推移、地域による処方箋の違い、など医療の実態を把握するための手がかりを多く得ることが出来る。さらに、史料の中の医師=患者関係に注目すれば、個々人の性格や文化的な前提、社会的立場、権力関係などを見出すことが出来るだろう。例えば、19世紀フランスのサルペトリエール病院のケース・ヒストリーは、ヒステリーに苦しんで思われる女性たちの断片的ではあるが多くの声を残しているが、マトロック(Jann A. Matlock)やフィッセル(Mary Fissell)がいみじくも指摘したように、そこからは労働者階級の女性たちが受けていた虐待や社会における周縁的な位置づけなどを読み取ることが出来るだろう。
 さらに、ケース・ヒストリーからは、医師の臨床場面における考え方の変化をみることも出来る。例えば、19世紀の初めのうちは、患者の状態をあらわすのに「自然である(natural)」という表現が患者記録に多く用いられていたが、客観的な診断術が増えるにつれ、19世紀末には「正常である(normal)」という言葉に取って代わられている。ケース・ヒストリーにみてとれる医師のこのような認識の変化は、ジューソン(N.D. Jewson)が「医学的世界観から消失した病者」と呼んだ事態の証左となっているといえるだろう。

 もちろん、ケース・ヒストリーという史料のもつ豊かさは、医学史内部に留まらない。例えば、ケース・ヒストリーはエスニシティ、階級、ジェンダー、地理的条件といった研究トピックを医学史と接合させることもできる。それを見事に示しているのが、パーニック(Martin Parnick)による麻酔と外科学の研究である。19世紀のマサチューセッツ総合病院において、外科手術の際の麻酔の使用は、患者の民族性・ジェンダー・年齢によって違っていた。また、外科医たちは痛みに対する感受性の階層を信じていた。同一の手術であっても、アイルランド生まれの白人労働者は麻酔を受けなくてもよいが、中産階級アメリカ生まれの白人女性は麻酔を受けなくてはならなかった。このように、医師のもつ様々な文化的価値観というバイアスを通じて、臨床行為が行われていたのであった。
 さらに、ケース・ヒストリーによって、科学史科学社会学へも接近が可能となる。例えば、当該領域における「実践」への関心は、医学史研究においても重要な研究課題であろう。つまり、これまでのように医師の理論にばかり関心を寄せるのではなく、実際に医師がおこなったことをみることを通じて、医師たちが書いたことを再解釈する課題などが考えられる。実際、科学史では実験室やフィールドノートに注目をしながら、科学における実践について議論している。この実践への注目は、医学史では臨床記録などをみることがそれにあたるだろう。
 もちろん、ケース・ヒストリーだけによって、患者の医療者の活動を完全に再構成できるわけではない。しかし、ケース・ヒストリーは、医学の経験における知的レベルと社会的レベルの断絶を架橋する手がかりとなりうるのである。

関連文献・参考サイト

・ジューソン「病人の消失」について
医学の様式、科学・技術の様式:Jewson ”The disappearance of the sick-man from medical cosmology” (1976) & Pickstone ”Commentary” (2009) - f**t note


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言説分析について(2):橋爪大三郎「知識社会学と言説分析」(2006)

 とある授業のアサインメントの続きです。本章は、前回読んだ友枝論文と比較して、似ているとされる知識社会学と言説分析の方法論の相違点を強調していたので、わかりやすかったように思えます。しかし、実際に言説分析を使った論文を読まなくては、やっぱりイメージがつきづらいですね(^^;)

橋爪大三郎「第6章 知識社会学と言説分析」佐藤俊樹・友枝敏雄(編)『言説分析の可能性――社会学的方法の迷宮から』東信堂、2006年、183-204頁。

 言説分析と呼ばれる社会学上の方法論は、知識社会学というまた別の社会学上のアプローチと類似していると言われる。実際、両者には共通点もあるが、当然、相違点もある。本論では、これら二つの方法論について比較を行うことで、言説分析のもつ新しさとその限界について検討されている。

 まず、両者の共通点は対象である。つまり、知識や観念といった不可視な実態に着目し、それがいかに構成されるかを考えようとする。これは、従来の社会学が目に見える具体的な行為に着目してきたことを考えると、非常に特異であるといってよい。一方、両者の相違点は真理や主客といった概念を前提とするかどうかで全く逆の立場がとられている。
 そこで、まず知識社会学について具体的な特徴をみてみたい。マンハイムルカーチなどに代表される知識社会学という方法論は、マルクス主義の影響下にある研究法である。知識社会学のは、真理の存在を前提とし、イデオロギーという誤った考えを人々がなぜ抱くのかを説明することを目的とする。このとき、イデオロギーについて研究する知識社会学自身はメタ知識として存在することになる。そのため、知識が知識について正当化しようとする自己言及に陥ってしまうという欠点をもっていた。

 次に、言説分析が他の社会学のアプローチと異なる点についてみてみたい。言説分析のもつ第一の特徴として、真理の対応説をとらないことがあげられる。つまり、真理は言説のシステム内部で構成されると考える。第二に、主客という図式を取らない点である。確かに、言説より小さいカテゴリである言表には特定の主体が想定されるが、言説は多数の人々の言表にまたがった間主観的なものであると考えるのである。第三に、言説を配列・分布させるような力が存在することを想定している点である。これは、フーコーが「権力」と呼ぶものであり、言説分析にとってはこの権力の具体的な作用を実証していくことが目的となる。
 それではこのような特徴をもつ言説分析にはどのような問題点があるだろうか。第一に、ある言説の背後に存在する権力の記述を試みるとき、その言説分析を行う者自身の背後に存在する権力について考察することができない、という点があげられる。第二に、言説分析の方法が「発見的(ヒューリスティック)」であるため、理論をもちえない点である。つまり、言説分析は方法であって、理論ではないのである。そのため、言説分析における研究の良し悪しは、これまでの研究とは異なった言説の配置が発見されたかどうかで決まる。第三に、言説分析は権力がなぜそのように作用したかについて説明することができない点である。つまり、時間の経過によって変化する言説を記述するしかできないのである。そして、第四に、言説分析は「容易に」利用されて、通俗化されてしまうことがある。

 このように、言説分析は、1980年代以降の相対主義的な混乱した精神状況において広く受容され、ある意味では通俗化されていまった。そこで、著者は最後に、言説分析は知識の研究史という文脈において、次の段階に踏み出すべきではないかと提案している。つまり、従来の社会学で研究されてきた「行為」と言説分析の着目する「言語」の関係性に注目することで、それらの接続を試みようとしているのである。その時に手がかりとなるのがヴィトゲンシュタインによる「言語ゲーム」である。言語ゲームとは、言語および行為が従う規則であり、それらの上位概念である。そして、社会は様々な言語ゲームの集積であると考える。このように考えるとき、従来の言説分析で考えられていた、言説の外側にあるものを全て権力という少々乱暴な見方に対して訂正を迫ることが出来る。つまり、言語ゲームのアイディアに従えば、言説の外側には様々な言語ゲームが堆積しており、そのある部分が「権力」であり、また別の部分が「規則」であるとみなすことが出来るのである。そうすることで、これまでの言説分析における忌むべき存在としての権力と、社会が成立するために必要な規則という異なるタイプのルールを峻別することが可能になるのである。