医療機器の製作者と利用者:月澤美代子「明治初頭日本における医療技術の移入・受容過程」(2009)

今日の研究会で科学機器(医療機器)に関する雑誌の特集を読んだため、日本における医療機器について書かれたものを読んでみました。

月澤美代子「明治初頭日本における医療技術の移入・受容過程――外科器具「イクラセウル」と「焼灼電気器」を中心に」『日本醫史學雜誌』55(3)、2009年、317-328頁。

 本論考は、明治初期の日本への西洋外科学技術の移入について、機器を使いこなせる医師の育成システムおよび機器製造者や商人の働きに注目し、検討をおこなっている。ここで具体的に注目されるのは、1873年にお雇い外国人医師の臨床記録である『治験録』で紹介された「焼截電機器」と、ドイツ留学帰りの佐藤進がドイツで購入し、1875年の順天堂医院での手術に使用した「イクラセウル」の2つの外科器具である。

 明治初年に日本に伝えられたこれら外科器具であったが、それらはともに当時の西洋医学界においても最先端の医療機器であった。イクラセウルは1850年にパリで公開されていたし、焼灼電気器は1841年に発表され、1852年に公開されている。それからわずか20年の時を経て、日本の医学界に伝えられることになったのである。
 著者は、これほどまでに早く受容が行われた理由として、まず、病院における最先端の医学教育があったことに注目する。1875年にドイツ留学から帰国した佐藤進は、順天堂医院において公開演示手術によって若い医師たちに器具の使い方などを講じていた。また、佐藤は実践的な内容だけでなく、病理学などの医学理論についても教えており、こういった知識は、1875年以降、『順天堂医事雑誌』として公刊し、医師たちの知るところとなったのである。
 一方、医療機器の国産化が成功したことも、最新の医療機器が早く導入された理由としてあげられる。そこで重要な役割を担っていたのが、外科機器の製作者とそれを紹介・販売する商人の存在であった。例えば、「イクラソイル」についてみてみると、鉄砲鍛冶から外科器械製作に転身した工人・石川六郎によって製作されたものが、1877年の第一回内国勧業博覧会に医療器具商の松本市左衛門によって出展されている。同様に、「焼灼電気器」もまた鍛冶職人から外科器械製作に転身した工人・佐々木金治郎によって製作され、1877年の第一回内国勧業博覧会に岩本五兵衛によって出展されている。このように、江戸時代の職人たちがこの時代に医療器械製作者として転身しえたことが、医療機器の国産化が成功するにあたって重要なファクターであった。
 その後、国産化された医療機器は国中に広まっていく。1881年の第二回内国勧業博覧会に、石代重兵衛によって出展された「焼灼電気器」に対して与えられた「有功賞牌」は、機器の広がりを象徴しているといえる。つまり、その機器の一部が白金からコークスに換えられたことによって品質は劣るようになったけれども、廉価になったため貧しい僻地でも使用が可能になったと審査員から評価されたのであった。
 もちろん、既に医師たちに指摘されていたように、医療機器の普及には経済的コストだけでなく、その機器を利用できる人材の育成も不可欠であった。先述したように、最先端の外科機器を受容した順天堂大学を皮切りに、1883年頃には有志共立東京病院においても外科技術教育などが行われるなど、外科機器を使いこなすための医学教育もまた浸透していったのであった。
 以上のように、明治初頭における医療技術は、医師教育システムの整備、医療機器製造者・商人の台頭、さらには彼らを奨励する産業政策などの要因が重なり合いつつ、移入・浸透していったのであった。

関連サイト

・坂本さんによる Isis Focus(特集:科学的機器の歴史) 読書会のまとめ 2012-04-06 - オシテオサレテ
・日本語で読める医療技術史の文献 

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