植民地支配のための昭和漢方:愼蒼健「日本漢方医学における自画像の形成と展開」(2011)

今週末にせまった『昭和前期の科学思想史』合評会のため、僕が担当する愼蒼健先生の論文を要約しました。なお、合評会詳細については、下記エントリをご覧ください。

金森修編著『昭和前期の科学思想史』(勁草書房、2011年)合評会 - les livres lus au clair de la lune

愼蒼健「第四章 日本漢方医学における自画像の形成と展開──「昭和」漢方と科学の関係」金森修(編著)『昭和前期の科学思想史』勁草書房、2011年、311-340頁。

昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

 本論考では、明治から昭和前期の漢方医たちが、西洋医学のもつ有用性や体系性といった特徴を、自らの中にも見出そうとする様子が記述されている。このとき、著者は単に漢方医たちの西洋医学に対する意識を検討するだけでなく、植民地朝鮮への意識についても注目している。そして、昭和漢方の有用性が、植民地主義のレトリックと重なりながら生み出されていったことを指摘するのであった。

 明治以降、ヘゲモニー争いにおいて苦境に立たされた漢方医たちは、自らの正統性を主張するべく、西洋医学を基準としつつ漢方医学の自己像を形成していった。このときの基準とは、西洋医学を奉ずる長谷川泰や長与専斎が西洋医学の優越性として挙げた (1)有用な医学と(2)体系的な医学という2点であった。そして、この優越性を乗り越えるべくことを意識し、漢方医たちは漢方医学の自己像を形成していったのであった。
 歴史的に見ると、これらに対する乗り越えは後者に対してまず行われた。それは、1910年代にすすめられた和田啓十郎や湯本求真による「理論は西洋、臨床は漢方」という思想であり、さらにそれを批判・発展させた中山忠直による理論をも陰陽論という漢方理論で置き換えるという手段であった。
 その後、このような自画像形成は一時停滞するも、1930年代になって論争が再興していく。その時に論点となったのが、第一の批判点、すなわち有用な医学としての漢方像の形成である。このとき、大塚敬節や矢数道明ら昭和の漢方を代表する漢方医たちが掲げたスローガンが、「科学の洗礼を受けた漢方」であった。有用な漢方であることを示すために、日華満三国の文化提携のための漢方医の大陸進出があげられ、さらに、伝染病やマラリア対策としての漢方を提唱し、集団予防医学に弱いというイメージの払拭が試みられたのであった。
 同時に、第二の批判点への確固たる反論が漢方医たちの間で形成されていく。そして、矢数道明によって現在でも東洋医学の基礎テキストでも用いられる対比が提出されたことで、体系的な医学としての漢方医学の自画像が完成させられたのである。すなわち、分析個別的な症状への「対症療法」としての西洋医学、症候の総合的な状態への「対証療法」としての漢方医学として捉える見方である。
 「科学化された漢方医学」が植民地支配において有用であると主張されたが、植民地ではその実現のため、京城帝国大学の杉原徳行と満州医科大学の岡西為人という二人の薬理学者によって、「新東洋医学」が盛んに喧伝された。例えば、矢数らの東洋医学運動と連携しながら、杉原は朝鮮を「大陸発展の兵站基地」と位置づけ、東亜大陸の秩序としての「新東洋医学」建設を目指したのであった。

関連リンク

・西洋、日本への対抗としての医学思想:愼蒼健「覇道に抗する王道としての医学」(1999)
http://d.hatena.ne.jp/fujimoto_daishi/20120403/1333456409

新装版 漢方医学

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