農村における漢方医学と西洋医学の共存:高久嶺之介「明治前期の村と衛生・病気」(2013)

高久嶺之介「明治前期の村と衛生・病気――京都府乙訓郡上植野村を対象に」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、2013年、201–227頁。

医療の社会史―生・老・病・死

医療の社会史―生・老・病・死

 明治初期、各農村は近代的な医療制度をいかに構築していったのであろうか。本論文は、明治元年から明治22(1889)年の町村制実施までの期間を対象とし、京都近郊の乙訓郡上植野村(おとくにぐんかみうえのむら;現、向日市上植野)における医療環境について考察している。その際、「上植野区文書」(向日市文化資料館蔵)などの史料を用いながら、近代的な医療システムが導入されたときに、その農村において残った旧来の医学的伝統と徐々に西洋化されていく医療制度の両側面を描き出している。
 明治7(1874)年に発布された医制は近代的な医療制度の象徴であるとされるが、医師の学統や民衆の日々の医療環境をみる限り、明治20年代ぐらいまでは漢方医学の伝統がある程度は残っていたと言える。たとえば、乙訓郡での医師登録者は、明治9(1876)年時点で旧医師6人、新医師0人であり、西洋医はいなかった。なお、ここでいう旧医師とはそれまで開業していた漢方医たちであり、新医師とは物理や生理学の大意試験を受けた西洋流の医師たちである。乙訓郡では早くとも明治11(1878)年までは旧医師だけしかおらず、記録上、はじめて新医師がみられるのは明治15(1882)年であった。明治24(1891)年になると旧医師は7人、新医師は3人となっている。同じ時期、京都全域において医師の7〜8割は旧医師であった。ただし、その数は時代が下るに連れ着実と減っている。一方、民衆は日々の病気についてはこれまで通り、漢方薬の置き薬によって対応していた。そういった売薬は富山のものが多く、他に大阪からも取り寄せられていたようで、多い場合には一つの家で20種類の薬が常備されていたようである。なお、明治15(1882)年に「売薬印紙税規則」が発布されたことを受け、上植野村の5組すべての家で薬の調査がおこなわれたため、置き薬に関する記録が多く残っているようである。
 このように、明治前期においては旧来の漢方医学の伝統は残っていたが、もちろん、各地自体は医療制度の近代化を進めようとしていた。なかでもそれが如実にあらわれたのが感染症対策であり、明治6(1873)年に京都での天然痘流行を受け、翌年に京都府はその対策のために「種痘規則」を制定している。その後、各郡でも種痘掛医が設置され、上植野村では宇田退蔵・宇田弘・並河雄三郎の三人によって、村民への種痘が進められた。ただし、この時期はまだ種痘にかかる費用が公的に負担されることはなく、その費用は受療者が医師に幾分かの気付を払うことで賄われていた。その後、明治11(1878)年に京都府は医師に支払うべき金額を具体的に定め、初種痘の者は15銭、再種痘の者は5銭の支払、貧窮の者は各区長が負担とするようになった。そして、明治13(1880)年には原則種痘料が無料となったが、受療者から医師へ少額の気付はいぜんとして支払われていたようである。なお、天然痘に対する種痘以外にも、自治体は感染症対策をおこなっている。たとえば、明治14(1881)年には、ある患者が腸チフスの診断を受けたとき、郡の衛生委員会を中心に、その報告が郡長や警察宛に速やかに届け出されている。このように、感染症の状況を衛生委員会がしっかりと把握するための制度・連絡経路が構築されている。こういった感染症に係る医療・衛生制度の構築に加え、自治体は西洋医師に対して積極的なサポートをおこなった。先に明治10年代半ばまで乙訓郡には西洋医がいなかったことをみたが、そのような背景もあって明治10年代後半から20年代末にかけて、六人部是蔵という西洋医を支援するために「六人部講」がつくられ、郡内の有力者がそれに資金を投じることで財政的な支援を試みたようである。

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