第114回日本医史学会・第41回日本歯科医史学会学術大会(2013年5月11–12日、於:日本歯科大学)

第114回日本医史学会・第41回日本歯科医史学会学術大会、2013年5月11–12日、於:日本歯科大学

 第114回日本医史学会で参加・報告して参りました。今回の学会は、はじめての日本歯科医史学会との合同学会であったことに加え、長年理事をつとめていた酒井シヅ先生が理事として最後の大会となりました。そのような点からも、今回の医史学会は、医史学という研究領域の一つの区切りとなる大会であったと言えるかもしれません。

 さて、今回の学会では若手の医学史研究者が多く報告していたことが特徴的であったと思います。川端美季さん(茨城大学/学振PD)の「明治期の日本における入浴に対する認識の変容」は、江戸時代から明治期にまでの入浴観について、連続的な部分とそうでない部分を指摘するものでした。江戸の養生書には熱すぎる湯への入浴は体内の気が乱れると考えられていましたが、明治期の石黒忠悳の『医事鈔』(1871)以降、温度を具体的に数値化することで適温についての議論がおこなわれるようになりました。同時に、『大日本私立衛生会雑誌』では海外の浴場に関する情報も紹介されるようになっています。このような研究は、日本版『清潔の歴史』(ヴァージニア・スミス著、2010年)へと発展しそうな、とても広がりのあるテーマと言えるでしょう。
 小田ならさん(京都大学)の「フランス領インドシナベトナム北部における「産婆」の活用」は、フランスの植民地下にあるベトナムにおいて、現地のリソースがうまく再編成されることで近代的な医療・衛生制度が構築される過程を描き出すものでした。フランス人たちは天然痘の撲滅と母子の健康管理を最重要課題としていましたが、それを遂行するために、1920年代後半よりベトナムで伝統的に出産に立ち会っていたバー・ムーと呼ばれる人々が無報酬で登用するようになっています。つまり、既にそれぞれの地域で信頼がある者たちをうまく活用することで、医療制度の近代化をスムーズに推し進めようとしたのでした。日本における植民地科学史・医学史研究は、台湾や朝鮮などを事例とすることが多かったですが、小田さんの研究によって新たにベトナムにおける植民地医学との比較可能性が生まれ、今後、この分野はより活性化していくことになると思われます。
 大道寺慶子さん(慶應義塾大学/学振RPD)の「江戸時代における毒の言説と病――『養生訓』の事例をもとに」は、貝原益軒が『養生訓』のなかで示していた「毒」の言説を、大道寺さん自ら5つに分類し、それぞれの特徴が明快に整理したものでした。これまでの医学史研究では、病気そのものの歴史が描かれることはよくありました反面、その病気の原因である「毒」が、それぞれの時代においてどのように捉えられていたかにはあまり注目されてきませんでした。そのため、このような毒の研究は、たとえば後に吉益東洞が提唱した「万病一毒説」という理論、あるいは、明治期の梅「毒」などといった診断名とのつながりを考究していく上で非常に重要な調査であると言えるでしょう。
 ウィリアム・エヴァン・ヤングさん(プリンストン大学)の「江戸後期における病気見舞と医療情報交換について」は、医師を中心に描かれることが多かった医学史に対し、病者の主体性あるいは患者の医療選択という観点から医学史を描き出すものでした。「病気見舞」という、これまでほとんど注目されることがなかったこの史料には、病者のもとへ見舞いに来た訪問者の名前や見舞品が具に記されており、人々が病気となったときの行動や習慣を垣間見ることができます。特に劇本作家・滝沢馬琴(1767–1848)への「病気見舞」の分析を通じて、多くの見舞客が病者に医薬やまじないを勧めていた様子が明らかになり、人々の間で医療に関する情報交換が活発におこなわれていたという考察がなされています。このように、ヤングさんの研究は、これまであまり注目されることのなかった患者のもつ豊かな医療文化の存在を明らかにしたものでした。 

 もちろん、医史学会でおなじみの先生方の発表もとても素晴らしかったです。月澤美代子先生(順天堂大学)の「明治初期日本における西洋解剖学的人体イメージの普及過程――上田文齋の内臓図」は、初等教育の場面で子どもたちにいかにして人体のイメージが教えられたかを検討するものでした。1872(明治5)年の学制公布後の初等教育では、身近なものを取り上げ、「これは何でしょう?」と問いかける「問答」という教育方法が一年生からおこなわれていました。しかし、3〜4年生ぐらいになると、対象がより抽象的なものへと変わっていき、このときに人体の内部に隠れた内臓が「問答」の題材として取り上げられるようになったのでした。このような教育の場を通じて、それまで多くの人にとってほとんど馴染みのなかった西洋解剖学に即した内臓のイメージが、人々に広がっていったと考えられます。
 澤井直先生(順天堂大学)の「16世紀におけるガレノス解剖学の受容の多様性」は、僕のような分野外の者にもとてもわかりやすい明晰な語り口で、ヴェサリウス以前・以後の解剖学について論じたものでした。ヴェサリウスがあらわれるまで解剖学で最も影響力のあったガレノスですが、『人体構造論』(1543)が出版されたあとであっても、ガレノスが急に読まれなくなったわけではありませんでした。たとえば、パドヴァ大学のファロッピオ(1523–1562)は、ヴェサリウス以降であってもガレノスの医学研究が依然として価値あるものであることを示すためにも、ガレノス解剖学で明らかに誤っている部分でさえ、その誤りを彼に帰するのではなく、人体の構造がガレノスの時代から変わったとして彼を擁護したのでした。
 鈴木則子先生(奈良女子大学)による「江戸時代の産科手術――回生術の展開と受容をめぐって」では、岡山の中島家史料をもとに、回生術の具体的な実践を明らかにするものでした。回生術とは母体保護のために死胎児を切り刻み、取り除く手術で、しばしば「出産の医療化」のはじまりと言われます。これまでは賀川流の回生術などの理論への着目が多かったのですが、鈴木先生はそれが実際にどのようにおこなわれたかに注目を促します。たとえば、中島友玄(1807–1876)の施術記録からは、約35年の間に270件以上の回生と鉤胞(こうぼう;胎盤を下ろす手術)が実施されていることがわかり、場合によっては複数の医者が数日にわたって、胎児を少しずつ取り出していたという事実が明らかになっています。

 以上にあげた諸報告以外にも、様々な分野・トピックの研究報告がおこなわれ、医学だけでなく、薬学や歯学、看護などに関する研究についても多くの報告がおこなわれました。また、地方からの参加者も多く、それぞれの地域に関する医療史を描き出そうとする試みが多いのも本学会の特徴でしょう。
 なお、来年はウォルフガング・ミヒェル先生を会長に、九州国立博物館で開催される予定です。今から福岡に行くのが楽しみです!