要旨:藤本大士「近世後期の秋田藩による医療政策の展開」第114回日本医史学会・第41回日本歯科医史学会(2013年5月12日、於:日本歯科大学)

 先月おこなわれた日本医史学会での僕の発表要旨を掲載します。なお、以下に掲載する要旨は、『日本医史学雑誌』「第114回日本医史学会・第41回日本歯科医史学会 合同総会抄録号」59(2)、2013年、269頁に所収されているものと同じものです。

藤本大士「近世後期の秋田藩による医療政策の展開」第114回日本医史学会・第41回日本歯科医史学会(2013年5月12日、於:日本歯科大学

要旨

 1980年代以降、近世日本の医療史研究は社会史的な研究課題に関する多くの重要な研究を提出してきた。塚本学や青木歳幸らによる先駆的な研究は、在村という共同体の単位に注目し、そこでの医療環境を構成している様々なアクターの存在を指摘することで、江戸時代の医療実態を見事に描いてみせた。今日でもそのような問題意識は多くの医療の社会史研究者に引き継がれ、在村医の学統や患者の受療行為、あるいは、医学知識のネットワークや薬種をめぐる商業など、様々な医療の社会史に関するトピックが明らかになっている。しかしながら、それら研究は主としてミクロな観点から医療環境の再構成を試みることが中心であったため、幕府や藩などの公儀が民衆の医療環境に対してどのように関与してきたかについては、ほとんど主題的に検討していない。そこで、本研究報告は近世後期の秋田藩における医療政策に注目し、藩が民衆のための医療環境を整備していった背景、および、そのときの藩のねらいを明らかにすることを試みる。
 本報告は、佐竹義和が秋田藩第九第藩主となった1785(天明5)年から、彼の遺志を継いだ官僚たちが藩政改革および医療政策を推し進めていった天保末年までを対象とする。利用する史料は、主として秋田藩政を探る上で重要とされてきた、『御亀鑑』、『秋田藩町触集』、『佐竹家譜』、『澁江和光日記』などである。これら資料を利用して、これまでに多くの藩政史上の出来事が議論されてきたが、藩の医療政策が主題的に論じられることはほとんどなかった。そのため、近世後期の藩権力と医療との関係について、この資料群を通じて明らかにしたい。
 本報告は、まず、江戸時代の公儀(幕府・藩)による医療政策について概観し、公儀が民衆への医療政策をどのように捉えていたかを確認する。具体的には、疱瘡や麻疹などに伴う施薬事業などを中心に検討する。次に、この研究課題について、近世後期の秋田藩ケーススタディとして考察したい。すなわち、麻疹や疱瘡の流行時、あるいは、地震などの災害時に、藩がおこなった施薬事業や医師の派遣などについて分析する。そういった医療政策の中でも、特に、文政期以降の藩領内鉱山における医療環境の整備が注目に値する。なぜなら、藩がこれほどまでに積極的に医療への関与を果たそうとした事例は、同時代の幕府や他藩ではみられない事例であるからである。このような民衆あるいは労働者のための医療政策は、寛政期の藩政改革および医療政策と緊密に関連しながら進められていった。すなわち、1795(寛政7)年に設立された藩の医学教育機関である医学館の設立、1799(寛政11)年の医師・売薬の取り締まりなどである。これら諸政策は一見、民衆への医療とは関連しないように思われるが、このような医療政策一般の整備を前提として、後の民衆への医療環境が整備されることになったのである。
 以上の歴史的過程をみていくに際して、本論では二つの概念に注目して考察したい。すなわち、「仁政としての御救」と「改革派官僚」である。前者は深谷克己らによって提出された見方で、公儀と民衆が医療政策を「仁政」として重要視していたことを示す概念である。一方、後者は金森正也によって提示された概念で、そういった仁政イデオロギーを地方にまで普及させていく役割を担った政治集団を指し示す用語である。前者は思想レベルの、後者は制度レベルの事象を明らかにするときに有用な概念であり、これら概念の導入により、秋田藩の医療政策の展開をよりよく理解することが可能になる。すなわち、佐竹義和の時代に形成された思想的かつ制度的背景が、秋田藩における積極的な医療政策を可能にしたと考えることができる。