幕末京都の医療環境:有坂道子「幕末京都における医家と医療」(2013)

有坂道子「幕末京都における医家と医療」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、2013年、179–200頁。

医療の社会史―生・老・病・死

医療の社会史―生・老・病・死

 古来より京都は日本の医学の中心であったが、江戸時代に入るとその中心は江戸へと移っていき、京都での医学は停滞したと言われる。しかし、蘭医学を積極的に学ぼうとした小石家・新宮家など、京都において活躍した医家もおり、その研究は最近かなりの程度進められるようになった。他方、他の地域に比して、京都における医療環境を分析した医療史の研究はそれほど多くない。そこで本論文は、京都における患者の診療範囲や種痘の実績、および、医学教育の内容などいくつかのトピックに着目し、幕末期の京都における医療環境の実態を明らかにしようとしている。
 まず、患者の診療範囲について、儒者漢詩人として活躍した河野鉄兜が大阪や京都の医師を多く訪ね歩く事例が紹介されている。自らも播磨国林田(現在の姫路市北西部)で医業を営んでいた鉄兜は、体調が優れないことを感じ、複数の漢方医蘭方医に診療をしてもらいにいった。大坂の著名な蘭方医である緒方家を訪ね、その後は伊丹に赴き、最終的には京都にまで行っていることからも、一人の医師だけに満足せず、多くの医師から診療してもらおうとしていることがわかる。なかでも、京都滞在時に受けた医療には満足したようである。事実、鉄兜自身、診療した医師たちの間に見立ての差はほとんどないことを認めつつも、京都の医師たちのあまりの親切であったあまり、当初は診療後すぐに帰郷するつもりだったが、効果が出るまで滞在することを決めているほどである。
 次に、京都における種痘の実績について、嘉永2(1849)年に開かれた日野除痘館と有信堂が検討される。日野除痘館では一ヶ月で150人に種痘をおこなうなど、輝かしい実績を残しながらも、種痘への偏見や採算度外視の経営がたたって、わずか二ヶ月で閉鎖されている。当時、種痘の経費は基本的にそれぞれの実施者の負担で進められていたため、その経営が難しさがわかる。一方、有信堂は鳩居堂の経済支援を受けたため、幾度かの再編を経ながらも、明治2年京都府の管轄下になるまで継続した。有信堂には長崎で種痘に成功した猶林宗建の弟・栄建らによって設立されたが、全国的にも種痘事業の盛んな場となっていった。種痘の傍ら、メンバーが拠金して、ドイツの種痘書の購入・翻訳にも取り組んでいる。しかし、その完成が間近となった寛政3(1850)年3月に、大坂の緒方郁蔵の編訳で種痘書『散花錦嚢』に先を越され、翻訳者の一人であった江馬榴園はその書簡内で悔しさを隠さずに述べている。結局、彼らの翻訳書は同年の7月に『種痘新全』として完成した。
 最後に、京都における医学塾について究理堂での医学教育が検討される。有信堂の中心メンバーの一人であった小石中蔵の祖父・元俊は究理堂という医学塾を開き、京都に多くの蘭医を輩出した。その医学教育の実態は、弘化2(1845)年に入塾した内山謙吾が、その年の4月20日から12月29日に残した日記に詳しい。その内容は、聴講・調合・輪読・後見などで、謙吾はなかでも薬剤調合の授業に一番多く出席している。このような基礎的な授業内容に加え、独読・写本などの個人学習、さらには実験・実習や他門での学習がおこなわれていた。たとえば、同年7月13日には小森宗二のところに赴き、電気生理学の祖として有名なガルバーニ動物電気に関する実験を聴講したり、10月26・27日には緒方洪庵たちによる人体解剖にも参加している。なお、究理堂では他門の授業に出席することは禁止されていたが、謙吾は7月27日に産科の船曳子錦に入門し、究理堂での学習と並行して授業を受けている。究理堂は理論面しか教えることができないことに対し、他門では産科の実践的な知識を得られることもあるため、究理堂は謙吾の他門での学習を黙認していたようである。

関連文献

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