広東システム下における最適な伝道方法としての医療:Lazich "Seeking Souls through the Eyes of the Blind"(2006)

Michael C. Lazich, "Seeking Souls through the Eyes of the Blind: The Birth of the Medical Missionary Society in Nineteenth-Century China," David Hardiman, ed., Healing Bodies, Saving Souls:Medical Missions in Asia and Africa, Rodopi, Amsterdam and New York 2006, pp. 59–86.

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

 広東システム下では、中国と欧米諸国との貿易はかなり制限されたものであった。このことは、中国での宣教師の活動も限定的にならざるをえなかったことも意味する。本論文は、そのような状況下における最適な伝道方法として、広東の宣教師たちが出版事業などによる伝道ではなく医療を通じた伝道が最適であると捉えていたことを明らかにしている。
 カトリックの宣教師は16世紀終わり頃には中国で伝道をおこなっていたが、プロテスタントの宣教師がはじめて中国に行くのは1807年のことであった。その先駆となったのはロンドン伝道協会(The London Missionary Society)のロバート・モリソンであり、彼は長年の間一人きりで広東での伝道活動をおこなっていた。しかし、1830年にはアメリカン・ボードの宣教師エリジャー・ブリッジマンと合流し、広東でのキリスト教伝道を押し広げようとするようになる。
 これとはまた別の文脈において、東インド会社に雇われた医師たちがマカオで大きな成功をおさめていた。その先駆は、1805年から種痘をおこなっていたアレキサンダー・ピアソンであり、彼に続いたジョン・リビングストンも種痘事業で活躍していた。その活躍に目を付けたロンドン伝道協会のモリソンは、リビングストンと協力して1820年に中国・西洋診療所を開院する。この診療所は1823年に閉院となるが、それに影響を受けたT.R.コレッジが1827年に眼科を中心とした診療所を開いた。この時期の中国では眼科といった西洋医学に対するニーズはかなり大きく、コレッジの診療所は多くの中国人患者を集めたのであった。
 そういった状況を目の当たりにしていたアメリカン・ボードの宣教師ブリッジマンは、母国の宣教団に宣教医を送ってもらうよう画策する。折しも、1834年ネーピア事件によって、中国側の西洋人に対する規制が激しくなっており、宣教師たちも出版活動を通じた伝道をするのが難しくなっていた。その代わりに、ブリッジマンは医療を通じた伝道に注目したのである。同年にはピーター・バーカーが初の中国への宣教医として派遣され、その翌年に広東で眼科を中心とする病院を開き、多くの中国人患者を獲得した。それと同時に、ブリッジマンやパーカーは病院の基盤となるような医療宣教協会を中国につくろうとするようになる。そのような動きに対し本国の宣教団は、宣教医の本分は医療ではなく伝道にあるとして否定的であったが、なんとか1838年にその協会の設立にこぎつけることができた。その翌年には、この協会が主導となってロンドン伝道協会から医療宣教師がマカオに派遣されている。
 アヘン戦争の勃発によって、中国の宣教医たちの活動は一時的に中断されることになったが、南京条約により五港が開港され、宣教師の活動もより自由になった。その後、パーカーはアメリカ政府の外交官に抜擢され、中国を後にすることになる。医療宣教協会は19世紀後半まで、パーカーの事例は中国における宣教医のモデルであるとみなし続けたのであった。