香港における医療宣教の広がりと地域ボランタリズムの貢献:Wong "Local Voluntarism"(2006)

Timothy Man-Kong Wong, "Local Voluntarism: The Medical Mission of the London Missionary Society in Hong Kong, 1842–1923," David Hardiman, ed., Healing Bodies, Saving Souls:Medical Missions in Asia and Africa, Rodopi, Amsterdam and New York 2006, pp. 87–113.

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

 本論文は、ロンドン宣教協会の香港における医療宣教活動を三つの時期に分類し、それぞれの時期の特徴を抽出することを試みている。具体的には、香港がイギリスへ割譲された1842年から1858年、同地での医療宣教が再興する1880年代、そしてその活動が安定化する1900年代以降が検討される。その際、医療宣教を促進するアクターとして、中国人・西洋人による地域ボランタリズムに着目している。
 第一期の医療宣教活動は、中国で8番目の医療宣教師となるベンジャミン・ホブソンがロンドン宣教教会(The London Missionary Society; LMS)によって派遣されたことではじまる。ホブソンは、中国で設立されていた医療宣教協会(Medical Missionary Society; MMS)に加入し、1843年から1845年まで香港のモリソン・ヒルにあった病院で診療活動をおこなった。1843年時点で香港の人口が16000人程度であったにもかかわらず、その病院は2年の間で7221人の患者を診療している。ホブソンは1845年にいったんイギリスへと帰り、香港で中国人に西洋医学を教えるための学校を設立するための資金集めに奔走する。しかし、この計画はアメリカ出身で影響力のあった医療宣教師ピーター・パーカーの反対により挫折し、ホブソンはMMSを辞任してしまった。ホブソンの代わりにLMSが香港へと派遣したのは、医療宣教師のヘンリ・ヒルシュベルクであった。彼もまた2つの診療所を新たに開くなどして活躍したが、この時期になると、LMSが医療宣教部門への支出を渋るようになっており、1851年にはモリソン・ヒルの病院を海軍に委譲し、1853年にはヒルシュベルクもアモイへと移動する。その後、ウォン・フンという医療宣教師によって一時的に香港での医療宣教は行われるが、彼が1858年に広東へ行ったことで、その活動は途絶えることになった。
 第二期の医療宣教は、地元のボランタリズムの高まりを受けて、1880年代に活性化した。とりわけ、エマニュエル・ベリオス、ホー・カイ、パトリック・マンソンという三人の人物が重要である。アヘン貿易によって一山当てたベリオスは、1881年に西洋医学を奨励する病院のための資金を拠出した。LSMはそれを医療宣教再開のための病院建設資金にあてようとしたが、ベリオスの寄付だけでは十分ではなかった。そこであらわれたのが、香港のLSM会員でもあったホー・カイである。彼は亡くなったばかりの妻の名を病院に冠することを条件に、病院建設に関わる費用の全額負担を申し出たのである。それにより、1887年にアリス記念病院が設立された。同年には、カイやマンソンらの後押しによって中国人のための香港医学校が設立され、LSMの医療宣教はさらに波に乗る。ベリオスのような非宗教的な財界の大物、およびカイのようなクリスチャンの中国人がいたからこそ、この時代にLSMの医療宣教事業は復活しえたのであった。
 第三期の1900年代以降、地域のボランタリズムに支えられ、LSMの医療宣教は香港での地位を確固たるものにすることになる。1900年頃には、香港政府も中国の伝統的な医学が高い乳児死亡率の原因であると認めるようになっており、1904年には西洋医学に基づく産科病院が新設された。このとき、LSMもその病院に婦人宣教医師を派遣している。また、LSMは中国人のための香港医学校との友好的な関係も維持し、医療宣教師にそこで講義をおこなわせている。この医学校の評判は次第に高まっていき、香港からの入学者に留まらず、中国南部さらにはインドからの志願者もあらわれるようになった。さらにLMSはアリス記念病院に才能のある中国人医師を登用することで、中国人にもっと西洋医学に親しんでもらおうとした。しかし1923年にLMSの病院は、高名な社会的指導者や財力のある商人たちによって構成される地方委員会の管轄下に置かれることになる。だが、その後もLSMは何とかして香港での医療宣教を続けようとしたのであった。