蘭方医学と神職の共存:長田直子「幕末期の宗教者と医師」(2012)

長田直子「幕末期の宗教者と医師――府中六所宮神職にみる医師・蘭学・種痘の一考察」関東近世史研究会(編)『関東近世史研究論集 2 宗教・芸能・医療』岩田書院、2012年、307–328頁。

関東近世史研究論集 2 宗教・芸能・医療

関東近世史研究論集 2 宗教・芸能・医療

 江戸時代の医療者と宗教者との関係はいかなるものであったか。それらは対立するものであったのだろうか。本論文は、幕末に神職をつとめ、かつ医師でもあった織田家の活動をみることで、神職にある者たちが医療と宗教を対立的に捉えることはなく、蘭方医学であっても、それと宗教との共存を認めていたこと指摘している。
 武蔵国にあった府中六所宮(現、大国魂神社)の神職は、神主である猿渡家を筆頭に数十人の社役人で構成されていた。その中でも、禰宜(ねぎ)をつとめていた織田家では神職と同時に医業を営む者が出てきた。たとえば、織田研斎(1824–?)は病弱を理由に神職を辞め、天保期に伊東玄朴の塾に入門しているし、織田貫斎(1826?–1893)も弘化2(1845)年に緒方洪庵に学び、伊東玄朴の養子にもなっている。江戸で種痘を先駆的に実施した伊東玄朴に彼らが学んだことは、多摩地域で早い時期から種痘がおこなわれることを可能にしたのであった。近隣の人びとは織田氏に医療を求め、同じ府中六所宮の神職者たちも患者として医師・織田氏を訪れたのである。同様に、神主をつとめる猿渡家も、ごく普通に、織田氏をはじめとする医師に漢方医蘭方医にかかわらずかかっていたし、宗教と医療を対立したものとしては捉えていなかったのである。このことは当然、神職にあった織田家蘭方医学を学んでいたことからも明らかであろう。
 しかしながら、幕末期になると、府中六所宮の神職間で織田家が種痘に関わっていることが問題化されはじめる。安政6(1859)年、既にこの地域で種痘を広く実施していた織田家に対し、他の神職がその行為を「血の穢れ」という神職の禁忌であるとして批判したのである。つまり、織田家が医療をおこなっていること自体はとくに問題視せず、種痘行為のみが問題化されたのである。ただし、このことは必ずしも種痘あるいは西洋医学神道との共存不可能性を示すわけではない。実際、著者が注意を促しているように、この批判の前から府中六所宮の神職間で権限や職務についての論争が起こっており、そういった流れの中で何かしらの批判の手がかりを得ようとして、織田家の種痘行為が問題化されただけであるとも考えられるのである。