藩による医療統制と公儀機能の限定性:海原亮「藩領における医療の展開」(2007)

海原亮「第四章 藩領における医療の展開――越前国府中を例として」『近世医療の社会史――知識・技術・情報』吉川弘文館、2007年、138-191頁。

近世医療の社会史―知識・技術・情報

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初出:海原亮「近世後期藩領における「医療」の展開――越前国府中を例として」『史学雑誌』112(11)、2003年、57-83頁。

 享保期に徳川吉宗によってすすめられた薬事政策は、江戸時代の公儀機能の一環として捉えられることが多い。つまり、小石川養生所や薬園の設置は公共的な医療の実践として考えられていたのである。しかし著者は、幕府による医療政策が実際にどのように地域社会に受容されたかについて注意を促し、公儀による医療政策の限定性を指摘する。つまり、藩レベルでは吉宗のおこなった医療事業はそれほどみてとれず、本論考が注目する府中藩では少なくとも、藩が医療に対してコミットするときは医師の統制などが主であったというのである。
 本論文の対象である越後国府中は福井藩の一部であったが、そこでは本藩の筆頭家老の本多家が実質的な支配をおこなったことから、ここではその自立性を強調し府中藩としている。この福井支藩は、本藩はもちろん周辺地域より少なからぬ影響を受けながら、医療制度を構築していった。著者は特に藩が領内医師の管理・把握に努めた事象に注目し、藩医を頂点としてその制度が整備されていく過程を精査している。
 府中藩の藩医は家臣団の中に組み入れられ、「藩医中」と呼ばれたが、その集団の日常的な仕事は、藩主家が病気になった際の治療はもちろん、彼らが他所に行くときに随行することなどであった。彼ら藩医中は、医師筆頭・奥医・専科医(産科・鍼医など)・それ以外の医師の4グループで構成されたが、中でも医師筆頭は藩医中という集団の意思を代表する身分であり、藩医中内部の医療の質を保持する機能をもっていた。たとえば、医師筆頭は藩医の子息が医家を相続するにふさわしいかを検討し、その技量が十分でない場合は相続を認めないこともあった。
 越前の周辺諸藩では天保末年より医学教育施設をもつ藩があらわれたが、そういった学問振興の影響を受け、府中藩では安政2(1855)年に医学館設立が企図された。藩医を中心に設立が立案され、町医がそれを承認することで、藩の医学教育施設設立に対する機運は高まったが、結局この年は医学所の設置は延期され、代わりに種痘所を兼ねた仮医学所がつくられるに留まった。しかし、それは十分に医学教育施設としての機能を発揮しており、藩医・町医両者を対象とし、漢・蘭の両医学に関する講義がおこなうことで、医術の質の向上が進められた。同時に、医学館に入門しない者、「片手療治」の者の配剤を禁止することで、領内医療を管理・統制しようという姿勢も打ち出されている。
 「片手療治」の者による医療を厳密に取り締まろうとする医学館の試みは、藩が府中城下町の医療を統制しようとする姿勢と大きく重なっている。特に、そこで取り締まりの対象として設定されたのは、他国・他領から来た「逗留医師」たちであった。逗留医師たちは、技量が低かったり、不当な薬代を要求したりと、その不埒な行動が全国的にも問題となっていた。このような事態に対応すべく、府中藩は天保末年より逗留医師の取り締まりをおこない、さらに、領内医師一般の取り締まりを進めたのである。たとえば、天保14年には、逗留希望者は証人を立て、町医年番に願い出ることを義務づけ、嘉永3年には、領内医師に対して医師開業の届け出を課している。その際、開業を希望する医師は、自らの身分を保証する者として、藩医などの師匠の存在を明らかにすることが求められたのである。
 以上のように、府中藩における医療への関与は、領内の医師の管理・把握において最も積極的におこなわれた。つまり、吉宗のおこなったような公儀機能の一環としての医療政策は、府中藩においてはそれほど明確には確認出来ないのであった。