非人をめぐる医療文化と近世大坂の社会構造:高岡弘幸「都市と疫病」(1988)

高岡弘幸「都市と疫病――近世大坂の風の神送り」『日本民俗学』175、1988年、20–37頁。


 本論文は、近世大坂の非人をめぐる医療文化について、民俗学的な観点に留まらず、当時の社会構造と関連づけることでそれを検討している。具体的に検討されるのは、安永元(1772)年に記された佐渡奉行勘定奉行の記録『耳袋』にある近世大坂の「珍事」である。当時、全国で風邪(インフルエンザ)が流行していたが、近世大坂では非人を金銭で雇い、疫病の神に仕立てて川の中へ投げこむということがおこなわれていたことがそこに記されている。『耳袋』ではこれは単なる笑い話で終わっているが、著者はこの出来事が当時の身分をめぐる社会構造に深く関連していたことを示そうとするのであった。
 まず前提として議論されるのは、江戸時代には疫病を鬼などになぞらえ、さらに鬼を藁人形などとして物体として視覚化することにより、病気のコントロールをおこなおうとする考えがあったことである。そもそも、疫病は鬼によってもたらされるという考えは鎌倉時代にもみられ、吉田兼好徒然草』にもそれに類する記述がある。つまり、病気という見えないものを、鬼や疫病神などのように具体化することで、それらをコントロール可能なものにしようという発想があったと考えられる。このとき、人々はしばしば疫病神を藁人形に仮託させ、それらを川に投げ捨てることで、疫病を浄化しようと試みていた。そして、これらと同様に、近世大坂では非人が藁人形の役割を担っていたと考えられる。そのため、これまでの民俗学研究の知見に照らし合わせ、近世大坂の事例を「疫病神送り」の一バリエーションとして捉えることも可能である。
 しかし、著者はそこに非人が出てくることに注目し、それを単なる慣習として理解するにどどまるのではなく、それを当時の近世大坂の社会構造と関連づける。つまり、非人が疫病神の役割を与えられた理由を、大坂における非人の「町抱え」という制度に求めているのである。大坂の町は非人に婚礼や宮参、葬式や墓所掃除、門番などをおこなわせることで、彼らに月々の飯米を与え、生活の面倒をみる非人の町抱えがおこなわれていた。そのことを踏まえると、非人を川に突き落とすという行為の主体が町単位であったこととの関連がみてとれるだろう。要するに、近世大坂の社会構造における非人の特徴的な位置づけが、疫病神として非人を雇用し、彼らを追い出すという医療文化の背景にあったのである。