青木歳幸「西洋医学の受容と佐賀藩の位置」洋学史学会特別講演(2012年5月13日、於:電気通信大学)

 今回の洋学史学会では、青木歳幸先生(佐賀大学地域学歴史文化センター/専任教授)による特別講演が行われました。発表内容は、青木先生が佐賀大学に着任してから取り組んでおられる医学史における佐賀藩の位置づけについてでした。少々長くなりますが、非常に面白かったので、以下に内容を要約したいと思います。

 佐賀藩の医学史については、これまでにいくつかの研究があります。杉本勲(編)『近代西洋文明との出会い』(思文閣出版、1989年)所収の杉本勲「幕末洋学における西南雄藩の位置」、酒井シヅ「佐賀藩の医学」などはその先駆といえるでしょう。最近では、青木先生による「佐賀藩蘭学再考――医学史の視点から」『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』(2007年)などがあります。
 先行研究における主たる論点は、佐賀藩における西洋医学の受容期をいつと考えるかについてです。杉本氏は西洋医学の受容の時期を19世紀初めであるとしていますが、酒井氏や青木先生は18世紀中頃には、既に一定の西洋医学を受容していたと指摘しています。そこで、今回の特別講演では、近世の佐賀藩という藩の特徴を踏まえて、西洋医学の受容時期について検討し、さらに佐賀藩の医学の特徴について指摘するというものでした。
 まず、佐賀藩の第一の特徴として、佐賀藩が長崎を警備する役を担わされていたという点が挙げられます。そのため、西洋文化について、長崎よりも詳しく学ぶ必要がありました。そのような意味において、西洋医学を日本ではじめて受容したのは、長崎ではなく佐賀であったと言えます。
 具体的には、18世紀中頃より「紅毛流医学」と呼ばれる外科学知識が、佐賀藩で受容されていきます。1774(安永3)年にはオランダ通詞である楢林重右衛門を鍋島家が召し抱え、1801(享和元)年には紅毛流外科医である楢林栄哲高茂を召し抱えています。さらに、18世紀後半には、楢林流外科学や吉雄流外科学といった、紅毛流外科の影響を受けた佐賀藩の医師の記述が多く見受けられます。以上を鑑みると、佐賀藩における西洋医学の受容時期として、杉本氏が19世紀初めとした時期よりもさらに早く、18世紀中頃であったと考えられるべきだと青木先生は主張していました。
 佐賀藩の第二の特徴として、「地方知行制」があります。これは、武士が農民から年貢を集める制度で、これにより佐賀藩では武士を中心とした支配が行われました。そして、この特徴は、医師養成に対する佐賀藩の積極的な態度へと結びつきます。近世日本では、医師は家業であるので、基本的に医師になるための費用はそれぞれの家で負担するのが自然でした。しかしながら、佐賀藩には「地方知行制」のため、領民を守る責任を藩がもつと考えていました。その結果、佐賀藩は当時の藩としては珍しく、藩費によって藩医に医学の修業を行わせているのです。例えば、1710(宝永7)年には、佐賀藩医牟田素友が京都へ三年間の医学稽古を藩費によって行っています。

 以上のような佐賀藩の二つの特徴から、医学に対する藩の積極的な姿勢を見いだすことができるでしょう。そして、佐賀藩の医学観は、19世紀に入ると、佐賀藩における西洋医学の重用として変化していくのです。このような事態は、佐賀の蘭学史に関するこれまでの通説、すなわち、「〔佐賀藩は〕他藩とくらべて医学から軍事科学への転換が比較的早期にしかもきわだって行われた」(杉本勲)というこれまでの議論とは異なっていると言えます。
 佐賀藩で西洋医学を重視する姿勢が継続されていたことは、藩独自の医師免許制度における西洋医学の位置づけの変化にみてとれます。1851(嘉永4)年よりはじまった「医業免札制度」では、1834(天保5)年に設置された医学寮での試験のもと、「医師之儀ニ付〔・・・・・・〕人命を預リ大切之業柄ニ付〔・・・・・・〕向後家業未熟之間は組迦被召置」として、一定レベルの水準に達していない医師は組外れとされました。そして、組外れにされた医師たちは、医学寮で医学を修業することにより、組付きとなることが許されたのです。さらに、1858(安政5)年に医学校である好生館が設立されて以降、1860(安政7)年からは、西洋医学を学んでいない医師に対しては、医師免札を好生館へ返上させ、西洋医学を再教育するように命ぜられることになります。そして、最終的には、1863(文久3)年までに、医師たちの間で西洋医学を身につける義務と漢方医学の禁止が達せられたのでした。
 幕末期においても佐賀藩での西洋医学への強い関心が維持されているまた別の事例として、佐賀藩における牛痘法の普及があげられます。1798年にジェンナーによって開発された牛痘法ですが、1849(嘉永2)年に日本で最初に佐賀藩に導入され、その後、全国に広がっていきました。そして、全国に普及していった背景には、佐賀藩全域における種痘の成功がありました。つまり、蘭方医の活躍と庶民自らが種痘を望んでいたことにより、多くの庶民への種痘が成功したのでした。江戸で蘭方医たちが普及させようとした種痘が漢方医や庶民から妨害・忌避されていたことを鑑みると、佐賀藩における種痘の成功はそれとは全く逆の状況であったといえます。
 このように、通説とは異なり、19世紀に入っても、西洋医学が軍事科学に取って代わられたというよりも、両者が相まって発展していたことを指摘し、発表が終えられました。 

※ この要約は、当日の講演内容に加え、青木歳幸「佐賀藩蘭学再考――医学史の視点から」『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』2007年を適宜参照しつつまとめられたものです。なお、この論文は、佐賀大学の機関リポジトリから無料で閲覧することが出来ます。
http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/56803

参考文献・サイト

佐賀の医学史について

近代西洋文明との出会い―黎明期の西南雄藩

近代西洋文明との出会い―黎明期の西南雄藩

九州の蘭学―越境と交流

九州の蘭学―越境と交流

佐賀大学地域学歴史文化研究センター刊行物

青木先生による医学史関連論考や史料などを無料で閲覧・取り寄せすることが出来ます。
http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/kankoubutsu.html