ヴィクトリア・リー「梶雅範論文へのコメント」金森修(編)『昭和前期の科学思想史』合評会(2012年4月14日 於:東京大学本郷キャンパス)

 前回のエントリでも書きましたが、先日の金森修(編)『昭和前期の科学思想史』の合評会(金森修編著『昭和前期の科学思想史』(勁草書房、2011年)合評会 - les livres lus au clair de la lune)におけるリーさんのコメントと梶先生のリプライをまとめました。
 コメンテーターのヴィクトリア・リー(Victoria Lee)さんは、プリンストン大学博士課程の学生で、現在、東洋文化研究所に訪問研究員として来日されています。専門は、日本の近代化学史、特に、発酵学の歴史についてです。

梶雅範「第二章 眞島利行と日本の有機化学研究伝統の形成」金森修(編著)『昭和前期の科学思想史』勁草書房、2011年、185-241頁。

昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

リー:本論文の要約

 20世紀における化学史の中心は有機化学という分野であると言えるでしょう。有機化学はこれまでの化学とは異なり、理論よりも実践と密接に結びついている分野です。そのため、その「思想」の歴史を描くことは、科学史家にとって難しい課題であると言えるでしょう。しかしながら、本論文ではあえて、1910〜50年代に活躍した有機化学者・眞島利行(1874-1962)に着目し、その科学思想を抽出しようと試みられています。そして、彼のとった研究戦略に、当時の化学思想の一端を見いだそうとするのです。

 眞島は、西洋より限られた研究環境にある日本の化学者たちが西洋の化学者と競争するには、「東洋特産物」を研究対象とすべきであると考えました。そして、最新の実験手法や理論をその対象に用いることによって、新しい知見を見いだそうとしていたのです。例えば、眞島は「漆」に着目することで、その主成分であるウルシオールの構造決定に取りかかり、優れた研究成果を残しました。そして、このような西洋との競争を意識した研究戦略こそ、昭和前期の化学思想の特徴であるといえます。
 眞島流の研究伝統は彼の研究室の学生に受け継がれていくことになります。1911(明治44)年、海外留学から帰国した眞島は、新設された東北帝国大学有機化学研究室初代教授に任命され、彼の学生にその研究戦略を身につけさせるのです。例えば、眞島の弟子である野副鐵男(1902-1994)は、台湾特産のヒノキに注目することで、その後、非ベンゼン系芳香族の化学という分野の先駆者となりました。そして、このような研究伝統は、日本の化学者にとって支配的な化学研究の方法となったのでした。
 以上のように、有機化学の研究伝統に着目し、昭和前期の「化学思想」が記述されましたが、最後に、眞島の日常的な思想を描くことが試みられます。ここで注目されるのは、東北大学史料館に残る眞島の日記史料です。この日記は、1914〜59(大正3〜昭和34)年にわたる長大な記録となっています。日記は、眞島が本格的に有機化学研究を進める東北帝国大学着任した3年後にはじまっており、かなりの期間、継続的に綴られています。この日記の分析を通じて、例えば、キリスト者としての眞島の思想など、彼の日常的な思想が明らかになっていきます。そして、日記の詳細な検討を終えた筆者は、眞島は何か特別な科学思想をもっていたのではなく、「普通の化学者」であったと結論づけています。そして、この「普通さ」のもとに、昭和前期を代表する化学思想が生まれ、受け継がれていったとしています。

リー&梶:コメント&リプライ

 次に、リーさんから4点のコメントが行われました。
 第一に、眞島流の研究伝統から脱し、新たな伝統が現れた1950〜60年代の日本の化学研究についてです。この時期は、福井謙一(1918-1998)を中心に、これまでの研究戦略とは異なり、日本独自の新しい実験手法や理論枠組みが開発した化学研究へと移行していった時代です。では、なぜ福井らによって、新しい化学研究が可能になったのでしょうか。
 「昭和前期」の化学思想について論じられた本論を読み終えた後、やはり、「昭和後期」の化学思想について気になってくるところです。そして、このような問いに対する梶先生の答えは、簡単に言うと、日本の化学研究が「成熟」したからということです。もちろん、これだけでは十分な答えとはなっておりませんが、この研究課題は、次の科研でじっくりと取り組んでいかれるそうです。
 第二のコメントは、眞島がなぜ「応用」研究を全く考えていなかったのかについてです。これに対する答えは、岡本論文にもあったような、帝国大学における理論と応用の棲み分けがあったからではないかというものでした。つまり、工学部や農学部といった「応用」を重視する学部と、理学部といった「理論」を重視する学部が日本の大学制度では並立していたという背景です。実際、「「漆液の成分の化学的研究を私に任せられんことを乞ふて、其快諾を得」、その代わり「漆の応用に就ては之に触れないことを約束」した」(195頁)と眞島利行が工業試験場の三山喜三郎に言っていたように、理論と応用の棲み分けがはかられていたのでした。
 第三のコメントは、本書後半部の「日記」に関する分析と、前半部の科学思想との間の関連性についてです。つまり、論文の前半部と後半部の関連づけが、ちゃんとなされていないのではないか、という指摘でした。これに対する回答は、調査不足のため、日記の中にまだそういった科学思想に関する記述を見出せていない、あるいは、単純にそのような部分は日記に書かれていない、ということでした。そして、眞島の禁欲的な態度が、思想と彼の科学思想の関連づけを難しくしているかもしれないということでした。
 最後に、観察・概念構築・理論形成と実験手法などとの関係性についてコメントされました。このような問題意識は、ピーター・ギャリソンなど、近年の科学史研究において注目を浴びる研究テーマとなっておりますが、本論文ではそういった概念装置を意識しつつも、具体的な分析を行うことが出来なかったと説明されました。この点については、本論中の研究課題でも述べているように、今後の課題にしたいとのことでした。

参考リンク

・「真島利行文書」東北大学史料館所蔵。1914〜59(大正3〜昭和34)年にわたる日記史料など408点。
http://www2.archives.tohoku.ac.jp/data/kojin-kikan/prof/majima/majima.htm
・@CristoforouさんによるTogetter「金森修編著『昭和前期の科学思想史』(@東大本郷キャンパス)合評会ツダり」
http://togetter.com/li/288019