藤本大士「<愼蒼健論文へのコメント>昭和漢方の内と外――漢方医学史および植民地科学史の観点から」金森修(編)『昭和前期の科学思想史』合評会(2012年4月14日 於:東京大学本郷キャンパス)

 
 14日(土)に金森修(編)『昭和前期の科学思想史』(勁草書房、2011年)の合評会が行われました。(金森修編著『昭和前期の科学思想史』(勁草書房、2011年)合評会 - les livres lus au clair de la lune
 そして、今回、同書所収の愼蒼健先生の論文「第四章 日本漢方医学における自画像の形成と展開──「昭和」漢方と科学の関係」に、僭越ながらコメントさせていただきました。しかも、コメントだけにもかかわらず、「昭和漢方の内と外――漢方医学史および植民地科学史の観点から」というタイトルもつけてみました(笑)ということで、その原稿と愼先生からのリプライをまとめておきたいと思います。

愼蒼健「第四章 日本漢方医学における自画像の形成と展開──「昭和」漢方と科学の関係」金森修(編著)『昭和前期の科学思想史』勁草書房、2011年、311-340頁。

昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

藤本大士:コメント

1 先行研究/本論の要約

 (自己紹介なので前略)本論文では、西洋医学とは異なる日本独自の医学体系、すなわち漢方医学に注目し、その実践者たちがいかに漢方医学を形成・発展してきたかについて記述されています。このとき、本論文で特に注目されるのは、漢方医学者たちの抱いていた西洋および朝鮮という他者への意識であり、その他者観がいかに漢方医学の思想内容に影響を与えたかについて考察されています。すなわち、西洋医学の特徴である有用性と体系性という2つの特徴を、漢方医学の中にも見いだそうとする中で、1930年代には、植民地支配というイデオロギー漢方医学の有用性が次第に重なっていくことが指摘されています。
 なお、本論考で記述される明治以降の漢方医学の展開については、日本医学史のみならず、科学史あるいは科学思想史にとって重要であり、これまでに多くの研究蓄積があります。そこで、以下ではまず、明治以降の漢方医学の展開が、先行研究ではどのように記述されてきたかについて、簡単にみていきたいと思います。

1.1 先行研究――明治以降の漢方医学の展開
 まず、本論文の主題である明治期以降の漢方医学の歴史研究については、その先行研究を大きく3つに分けることが出来ます。
 第一の視点は、主として漢方医学の実践者、いわば漢方医学内部の人々によって描かれてきた漢方の歴史です。それらは、漢方医学理論などの具体的な発展過程について論じており、諸流派の理論体系やその特徴を記述してきました。今回の論文にも登場していた大塚敬節などは、このような視点にたった漢方医学史家であるといえます。
 第二の視点は、漢方医学を西洋医学との関係性において捉えようという視点です。この視点は、医学史研究においては最も支配的な見方となっており、多くの医学史家がこの見方を採用しています。このような見方に立った漢方医学の歴史は、例えば、明治初期に西洋医学が国の医学と制定されて以降、西洋医学の臨床的な成果によって、漢方医学が急速に駆逐されていく歴史として描かれています。つまり、明治期における漢方医学の衰退を、臨床における西洋医学の圧倒的な優位に結びつける議論です。もちろん、西洋医学の臨床の優位だけでなく、有名な脚気相撲で露見したような漢方医学の秘密主義、西洋医学の普遍主義なども注目されたりもしますが、いずれにせよ、西洋医学の圧倒的な優位を前提としている点で共通しています。
 漢方医学に対する第三の見方は、明治期における西洋医学漢方医学の関係性を探究する際に、この西洋医学の優越という前提を問題化しました。つまり、これまでのように治療成果の優劣という対立軸ではなく、西洋医と漢方医のそれぞれに対する意識、いわば医師達のイデオロギーに注目したのでした。
このような視点は、杉山滋郎氏の1987年の論文「漢方と西洋医学」によって提示されました。杉山氏は明治期の西洋医学漢方医学の治療成果を具体的に検討し、明治期ではかつて思われていたほど、西洋医学漢方医学の臨床成果にそれほどまでに大きな差異がなかったことを指摘しました。つまり、杉山氏は、西洋医学の支配および漢方医学の衰退を、医学の内容そのものに原因を見いだそうとするのではなく、むしろ、明治政府がなぜ積極的に西洋医学の採用をはかったのか、というイデオロギーの問題に注目を促したのでした。

1.2 研究史上への位置づけ――西洋および朝鮮という他者に対する意識へ注目

 こうして杉山氏によって提示された「イデオロギー」という論争軸は本論文にも引き継がれました。そして、杉山氏が主として明治期を対象としていたことに対し、愼先生は昭和前期、とりわけ1930年代における「漢方医学復興論争」前後の時代に注目し、明治期とは違った形で形成される東洋医学の自己像について検討したのでした。
 しかし、杉山氏は西洋医学の優越という前提を問題化したのですが、代わりに提示したイデオロギーレベルの問題については、具体的に論点を提出していませんでした。それに対し、愼先生は、当時の漢方医たちが西洋および朝鮮をいかに捉えていたかに注目することで、その他者観が漢方医学者の自画像形成にとっては重要であったことを指摘したのでした。このことは、西洋医学の有用性と体系性という二つの特徴を、漢方医学者が自らの医学に見出そうとする姿にみてとれるでしょう。
以上のように、日本医学史研究に対して新たな視点を提示した本論文は、同時に、科学史研究に対しても重要な見方をもたらしたのでした。つまり、従来の科学のヒストリオグラフィでは、主として西洋対日本という二項関係の中から、日本における科学思想や医学思想の展開が記述されることが多かったのに対し、本論文では、「朝鮮」という第三項を挿入することで、当時の医学思想の形成におけるより複雑な実相を明らかにしようと試みられているのです。このような見方は、のちに具体的に述べる植民地科学史における研究とも接合します。例えば、1930年代に喧伝された、植民地支配に有用な道具としての「漢方医学」というレトリックはその典型であるといえるでしょう。

2  コメント

 以上、簡単に本論文の研究史における位置づけを説明させて頂きましたが、次に、本論文に対するコメントへと移らせていただきます。その際、「昭和漢方の内と外」、すなわち、漢方医学史そして植民地科学史という2つの研究領域を意識しつつ、いくつかのコメントを行いたいと思います。

2.1 【昭和漢方の内=漢方医学史】 異なる流派間の関係性について
 第一に、昭和漢方の内、すなわち、漢方医学の内部の関係性に注目し、コメントします。
 かつての漢方医学史家が各学派の理論体系など、内部の歴史に注目してきたことに対し、本論文は西洋医学あるいは中国や朝鮮の伝統医学という「他者」の存在に着目することで、漢方医学の歴史的展開を描いています。しかしながら、やはり、漢方医学の諸流派間の関係性については、より詳しい検討が必要なのではないかと感じました。
 例えば、本文では、1930年代の「漢方医学復興論争」において後世派・古方派・折衷派が「協力」し、帝国医療への貢献を強調したとあります。つまり、漢方医たちは、各流派内部の差異を強調するのではなく、中国や朝鮮などの伝統医学を他者としつつ、それらとの差異化作業を通じて、自らの漢方医学像を形成していったという議論です。 [313-314] ここで、漢方医学の諸流派について、簡単な特徴をみてみたいと思います。すなわち、江戸時代では、17世紀に後世派が陰陽論という空論に走っていたことに対し、その後、古典である『傷寒論』への回帰が主張され、理論よりも実践を重んずる古方派の医師たちが登場したのでした。これらの流派の特徴を鑑みれば、傷寒論をベースにしていた「新東洋医学」の主唱者[335]たちは、各流派の「協力」というよりも、むしろ、古方派へ「収斂」したとは考えられないでしょうか。

 このとき、さらに気になるのは、それぞれの流派における医学思想と、植民地主義との親近性についてです。先ほどの坂野先生の論文でもあったように、日本人起源論の議論の中に皇国史観と後に結びつくことになる議論が含まれていたという分析視角を本論にも当てはめると、漢方医学の流派の中でも、植民地主義と結びつきやすい思想やそうでない思想があったと考えることはできるでしょうか。
 以上、2点が昭和漢方の内に注目した上でのコメントです。

2.2 【昭和漢方の外=植民地科学史】 朝鮮の医師たちの反応と反応への反応
 次に、昭和漢方の外、すなわち、植民地朝鮮における反応に焦点をあて、植民地科学という研究課題との関連でコメントしたいと思います。
これまでの植民地科学研究では、西洋近代科学が植民地主義を推し進める上で有力な道具であったという見方、すなわち、「帝国の手先」としての西洋近代科学という見方が中心となっていました。そして、第四節で示されたように、杉原の「新東洋医学」という構想は、大陸進出のレトリックと重なっており、まさに「帝国の手先」としての科学として捉えうるものだと思います。ここで、本論で特に興味深いのは、先行研究であったような植民地支配の道具としての西洋医学の姿ではなく、帝国の手先としての「科学化された伝統医学」の存在に注目した点です。このように、本論文は、これまでの植民地科学研究において議論されることがなかった、また別の「植民地科学」の事例を提示しているといえるでしょう。
 一方、最近の植民地科学研究では、近代科学の単線的な広がりに注目するだけでなく、植民地側の反応にも注目した研究があらわれています。例えば、西洋科学に接した植民地の人々は、必ずしもそれに包摂されていったわけではなく、様々な抵抗を示したり、西洋科学を選択的に受容あるいは拒否したりしていたという議論です。
 そして、このような視点に立ったとき、杉原らによって主張された「新東洋医学」が、植民地朝鮮においてどのような反応を受けたか、という点が気になりました。この点については、愼先生が1999年に発表された論文「覇道に抗する王道としての医学」において注目した朝鮮人医師・趙憲永の医学思想が参考になるでしょう。趙は、まさしく本論文と同じ1930年代に、西洋医学でもなく、日本の漢方医学でもない、オルタナティブとしての医学思想を展開し、杉原らの主張した「新東洋医学」に対して冷ややかな態度をとったのでした。それでは、このような強烈な個性ももった趙以外の朝鮮の医師たちは、「新東洋医学」に対してどのような反応を示していたのでしょうか。

 さらに、趙らの反対に接した新東洋医学を志す医学者たちは、その後、何か別の対策を講じたのでしょうか。言い換えれば、朝鮮における反対運動が、日本の医学者あるいは漢方医学者に影響を与えたということはあったのでしょうか。もし、そこに何らかの影響関係を見いだせるのであれば、昭和前期の漢方医学という思想、ひいては、日本の医学思想の展開をよりダイナミックに記述することが可能になるのではないかと感じました。つまり、日本から朝鮮への眼差しという一方向的な他者観によってその思想が形成されたとみるのではなく、その他者観が自らへと反射されることによって当時の医学思想が形成されていったと見ることが可能になるでしょう。

 このように、昭和漢方の内と外に注目することによって、昭和前期の医学思想を日本・朝鮮・西洋という三者間の相互作用によって形成されたものと見ることが可能となり、その展開をより総合的に記述することが可能になるのではないでしょうか。以上、漢方医学史と植民地科学史という2つの観点からコメントをさせていただきました。

参考文献

・杉山滋郎「漢方と西洋医学」下坂英・杉山滋雄・高田紀代志(編)『科学見直し叢書 1 科学と非科学のあいだ――科学と大衆』木鐸社、1987年、203-240頁。
・加藤茂生「植民地における科学技術の歴史叙述について」『科学史・科学哲学』14号、1998年、38-46頁。
・愼蒼健「覇道に抗する王道としての医学――1930年代朝鮮における東西医学論争から」『思想』905、1999年、65-92頁。
・Mark Harrison, "Science and the British Empire," Isis, 96(1), 2005:56-63.(無料閲覧可能:http://www.jstor.org/stable/10.1086/430678

愼蒼健:リプライ

 最初に、本書の計画段階での、当初の愼先生のねらいなどについて説明されました。最初は、漢方医学の理論に注目するのではなく、より実践的な活動について記述しようとされていたようでした。また、杉原らの主張した「新東洋医学」の「兵站基地」として重要であったのは、本論文で注目されていた朝鮮ではなく満州であったため、満州における「新東洋医学」の活動について、みていきたいと考えていたそうです。
 しかし、想像以上に、上記二点を満たすような史料が見つからず、今回の論文にもあったように、実践ではなく思想や理論の部分、満州ではなく朝鮮、といった着眼になってしまったようです。以上を踏まえた上で、下記のような応答がなされました。

1:漢方医の「協力」か?それとも、古方派への「収斂」か?

 この問いに対しては、当時の漢方医たちの医学理論と臨床場面での相違を指摘しながら、あらためて漢方医の「協力」であるという見方を提示されました。
 そもそも、僕の単純な漢方医学史理解では、後世派=陰陽論、古方派=『傷寒論』重視といった理解があったため、1930年代に主張された「傷寒論をベースとした漢方医学」は、諸流派が「協力」していたというより、古方派という一つの流派へ「収斂」されてしまったと見てしまっていました。しかし、実際の漢方医たちは、言説上では『傷寒論』をかつぎながらも、実際はそれとは違った医療実践を行っていたということを、愼先生は指摘されていました。つまり、医学の理論と実践とのレベルにおけるふるまいの違いを考慮した上で、「傷寒論をベースとした漢方医学」の実態を捉えるべきということでした。

2:医学理論と植民地主義イデオロギーとの親和性

 この問いについては、あまりこのような問題意識をもっていなかったため、意識されたことはなかったようです。そのため、今後の検討課題にしたいとのことでした。

3:趙憲永以外の朝鮮人医師たちの「新東洋医学」に対する反応は?

 「覇道に抗する王道としての医学」(1999)で注目した趙憲永は、確かに、ある意味で特異な人物であり、当時の典型的な朝鮮人医師たちの反応とは言えないとのことです。(趙は、後に右翼活動家となり、北朝鮮に移住したりしているそうです。)
 それでは、他の朝鮮人医師たちはどういった反応を示していたかというと、1940年以降は杉原らの主張した「新東洋医学」に積極的にコミットする医師たちが多く現れたそうです。しかし、医師たちが関わっていたという事実をみるだけでなく、そうするに至った背景をより詳しく検討していく必要がある、と愼先生は注意を促していました。

4:朝鮮人医師たちの反応に対する日本の「新東洋医学」支持者の反応は?

 この問いについても、もし何らかの影響関係を見いだすことができれば、興味深いとは思いとは認められつつも、今のところ、日本批判を展開した趙憲永らの東西医学論争について言及した日本人医学者の記述は確認出来ていないそうです。ということで、もし、戦前の日本の医師が1930年代朝鮮の「東西医学論争」を論じている史料をお持ちの方がいたら、是非とも愼先生までご連絡を!

感想

 今回、僕の当を得ていないコメントにもかかわらず、明瞭な回答を提示していただいたことは、非常に嬉しく思いました。
 先生のリプライの中で、個人的に最も参考になったのが、「漢方医の実践と理論」というトピックです。ここ最近の科学史研究では、科学(あるいは医学)の理論についてだけでなく、その実践についても検討していこうという研究が多く現れていると思います。(いわゆる、"Practical Turn")
 しかし、漢方医の実践を知ることが出来る史料はそれほど多くはありませんし、そもそも日本の医学史研究で、カルテなどの史料を使った研究はそれほど多くありません。(例外として、慶應義塾大学の鈴木晃仁先生は、昭和前期の精神医学者のカルテの分析などを行っています。)そのため、今後は明治〜昭和前期にかけての漢方医学の実践を知ることが出来るような史料を探していきたいと感じました。

関連リンク

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