細菌学に基づく公衆衛生から社会的な道具としての医学へ:Löwy & Zylberman "Medicine as a social instrument"(2000)

Ilana Löwy & Patrick Zylberman, "Medicine as a social instrument: Rockefeller foundation, 1913-45," Studies in History and Philosophy of Science Part C: Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences, 31(3), 2000, pp. 365-379.

 1913年に設立されたロックフェラー財団(以下、RF)は、病気と戦うことで、それぞれの地域の社会経済的な基盤を改善することを、その慈善活動の当初の目的としていた。実際、1909年に設立されていたロックフェラー衛生委員会はアメリカ南部の鉤虫症撲滅を目指していたし、1914年に設立されたRFの国際保健委員会(IHC)はその成果をアジアやラテンアメリカに向けて輸出しようとした。たとえば、IHCにおいてRFは、それらの国々にアメリカの新しい「公衆衛生科学」の優越性を知らしめ、同時にれが近代化や経済発展のためには効率的な方法であることを現地の政治家たちに示そうとした。ただし、RFはあくまで鉤虫症や黄熱病、マラリアなどの病気の撲滅にのみ注力し、結核といった貧困にも関連する病気についてのキャンペーンはおこなわなかった。というのも、鉤虫症は治療が容易で短い期間で撲滅可能である一方、結核などは大きく社会経済的要因に依存しているため、自らの手に負えないものであるとRFは考えたからであった。
 一方、ヨーロッパ諸国に対するRFの介入は、アジアやラテンアメリカとは異なり、より政治的に配慮した形でおこなわれた。アメリカ流の公衆衛生を彼らに見せつけるのではなく、あくまで健康にまつわる諸実践を通じて、公衆衛生の教育を広め、それに関する組織を生み出すことを目標とした。そうすることで、北アメリカの公衆衛生制度と同質なものをヨーロッパにもつくろうとしたのである。たとえば、1918年にアメリカにつくられたジョンズホプキンス大学公衆衛生学校は、実験科学のトレーニングを身につけ、同時に適切に疫学的データを収集・整理することができる科学者・医学者を育てることを目的としたが、そこで公衆衛生を学んだ専門家がアメリカ国内そして海外へと広がっていったのである。このように、1913年から1927年までのRFの活動は、主としてアメリカ流の公衆衛生を拡散させることを目指していたのであった。
 しかし、1925年から1928年にかけて、RFはこれまでの方針を大きく転換させる。すなわち、アメリカ流の公衆衛生事業の拡散ではなく、国際的な科学研究事業の推進を進めるのであった。この頃には、公衆衛生に対して多額の資金が投入されてきたにもかかわらず、結果が芳しくないことが問題化されはじめていた。その代わりとして、RFの理念をより効率的に遂行するために注目されたのが科学研究であった。ここで想定されている科学研究とは、病気や不合理で時に自己破壊的な行動からなどから人間を救うことを目的とし、より幅広い対象をもっている。それらは「新たな人間科学」と呼ばれ、たとえば、優れた人種をつくり、劣った人びとに生ませないようにする優生学や、無計画な生殖を回避する避妊法などが含まれていた。こうして医学は、これまでのように個別の疾患を扱い、一科学の領域に留まっていたものから、保健行政など科学とは異なる領域と協働しながら、「社会的な道具」として機能していくことになるのであった。