医療活動を「副業」としてはじめた公家:米澤洋子「室町・戦国期の山科家の医療と「家薬」の形成」(2013)

米澤洋子「室町・戦国期の山科家の医療と「家薬」の形成――「三位法眼家傳秘方」をめぐって」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、2013年、82–129頁。

医療の社会史―生・老・病・死

医療の社会史―生・老・病・死

 代々、内蔵寮を世襲した山科家は、中流の公家であったにもかかわらず、ある時期から「薬の家」とも称されるほどに医療活動へ傾倒していった。その背景には、医書が流通するようになったことで医師でない者にも医学知識へのアクセスが可能になったこと、および、荘園制の形骸化が進行し、公家の経済状況が逼迫されつつあったことなど、当時の社会状況が関連していたと考えられる。本論文は、山科家の日記史料を手がかりに、ある公家が医療に関心をもちはじめ、様々な医学知識ネットワークを活用しながら、実際に医療活動を開始していくまでの過程を描き出したものである。
 公家である山科家のなかで、はじめて医療に対して強い関心をみせたのが教言(のりとき;1328−1411)であった。教言は中風を患っていたために、侍医・坂士仏(さか しぶつ;1327−1415)によって治療してもらったり、自ら仁和寺に薬剤を依頼するなどして、最晩年(応永12–17(1405–1410)年)に医療への関心を高めたのであった。なお、士仏と教言はともに足利義満の寵臣であったことから、教言のかかりつけの医師として士仏が医療をおこなっていたと考えられる。寛正3(1462)年に言国(ときくに;1452−1503)が家督を継ぐと、その日記史料のなかに当主への施薬に関する記事が多くみてとれるようになる。このとき、投薬を担当したのは、山科家の経営を補佐した家司・大澤久守であった。この頃には、『和剤局方』といった宋版医書が広まっていたこともあり、医師でなくとも薬剤の処方に関する知識を得ることができるようになっていたのである。家司の大澤久守が死亡後、息子の重致が家司を継ぐが、彼は脈診をおこなった上で処方するなど、より専門的な医学知識を身に付け、投薬をおこなっていた。
 言継(ときつぐ;1507−1579)の頃になると、山科家は自らが主体となって医療活動をおこないはじめることになる。言継の父・家綱が筆写していた「三位法眼家傳秘方」は、「三位法眼」という人物の医学を簡便かつ実用的にまとめたものであり、言継の医学知識を大幅に高めることになった。若い頃より、「三位法眼家傳秘方」の他にも、脈診に関する医学書を読みあさった家継は、そういったテクストに基づきながら、下女の火傷治療などの医療実践を進めていく。天文13(1544)年からはその医療活動が活発化し、その医療の対象は家族・家僕のほかに職務上の同僚である禁裏に伺候する男女、さらには近隣住人へと広がっていった。言継の医療は大きく投薬・受注・贈答に分類することができ、それらは困窮化していた山科家に利益をもたらした。このとき、投薬では病者を診察して薬を処方することから、代金が後払い・日延べされてしまうことが多かった一方、受注では事前に依頼を受けてから、言継自ら調剤して売り渡すため、山科家の経済状況にプラスになるところが大きかったと考えられる。こうして、山梨家は人々から「薬の家」と称されるほどになったのである。