民俗写真家のみた基層文化と近代化:菊地暁「距離感(センス オブ ディスタンス)」(2004)

 坂野徹『フィールドワークの戦後史』で取り上げられていた写真家・芳賀日出男について勉強するため、彼の半生について記した文献を読みました。以下のまとめは、坂野本を受けて、九学会連合および宮本常一との関連部分を中心にまとめています。なお、坂野本のまとめはこちら

菊地暁「距離感(センス オブ ディスタンス)――民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法」『人文学報』91、2004年、61-96頁。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/48655
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 1921(大正10)年、芳賀日出男は満鉄の技師の子どもとして生まれた。「ロシア人の作った街」である大連で育った芳賀が、物心ついてからはじめて本土に行ったのは昭和14年慶應義塾大学予科に進学したときのことであった。父の影響により、小学生の時からカメラに没頭していた芳賀は慶大カメラクラブに入部したが、そのときに出会った顧問・野島康三が「唯一の師」となった。大学ではまた、折口信夫から国文学の授業を受けたことにより、芳賀は「民俗写真」への関心を胸に秘めるようになる。戦中の部隊では航空写真を担当し、敗戦後は中国語の能力をいかして通信社に勤めるも、1952(昭和27)年に会社がつぶれてしまう。そこで芳賀は失業保険を使い福島の農村へ赴き、現地を撮影して回った。これが「民俗写真家」としてのキャリアのスタートであった。
 1955(昭和30)年、芳賀に二つの大きな転機が訪れる。第一に、軽井沢の老舗旅館の三女・佐藤杏子との結婚である。杏子は写真の販売・営業に無頓着な芳賀をサポートし、その後の芳賀の写真家としての活動を陰ながら大きく支えた。第二に、九学会連合奄美大島共同調査への参加である。民俗学、人類学などの諸学会によるこの合同調査において、芳賀は現地のひとびとや同行した学者から多くを学んだ。その代表が「信頼関係(ラポール)」と「分類法」である。たとえば、芳賀は若い宗教学者や心理学者から「ラポール」の重要性を学び、学者が難儀していた巫女の撮影に成功した。また、撮影した写真の分類・整理に際しては、文化人類学マードックによって考案された分類法HRAF(Human Relations Area Files)に基づいた分類をおこなった。これをまとめたものが、『奄美――自然・文化・社会』(1959年)であり、そこに収められた写真の3/4あまりの562枚が芳賀の撮影によるものであった。ここにおいて、芳賀は社会科学的な手法を身につけることができたのである。
 その後、稲作の儀礼に関する写真を『田の神――日本の稲作儀礼』(1959年)としてまとめ、近代化の進行により、消えゆく日本の「伝統」を記録に留めようとした。このとき、芳賀は伝統を破壊する近代化に対して否定的な態度をとっていたというわけではなく、むしろ、人びとが変わりゆくことは生活の必然であるとし、その変容を主題化することを試みていた。1963(昭和38)年には、雑誌『太陽』(編集長:谷川健一)に民俗学者宮本常一の連載ルポルタージュの掲載が決まり、芳賀はその随行写真家として選ばれる。この調査をきっかけとして、芳賀は宮本から調査技術や被調査者との関係構築の方法について多くを学ぶことができたのである。また同時期には、網走のオロッコのひとびとの撮影をおこない、民俗的な「基層文化」だけを撮影することの問題を痛感するようになる。その結果、「基層文化」だけでなく明治期以降の「近代化」について考えることの必要性を感じ、幕末・維新期に誕生した宗教団体「大本」に関する撮影を試みようとしたのであった。たとえば1961(昭和36)年に、隠れキリシタンとして知られた五島列島大本教への集団転宗したことについて、基層文化と近代化の視点からその背景を描き出そうとした。なお、このときにはマードック分類法が活用されている。

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