負担増に抗い、自立する全国諸藩:岸本覚「安政・文久期の政治改革と諸藩」(2011)

 とある近代日本史ゼミのアサインメントとして、『講座 明治維新』より幕末の政治史を論じた文献を読みました。

岸本覚「3 安政文久期の政治改革と諸藩」明治維新学会(編)『講座 明治維新 2 幕末政治と社会変動』有志舎、2011年、85–115頁。

講座 明治維新2 幕末政治と社会変動

講座 明治維新2 幕末政治と社会変動

 幕末期の政治史は、ペリーやプチャーチンの来航に伴って、地方の領主層が自らの藩の政治改革を進め、中央政治への参加を進めるようになる過程として描かれることが多かった。そこでは、「西南雄藩」を中心とした描写がなされることが多い一方で、各大名の動向を全体的に俯瞰しようとする姿勢はほとんどない状況であった。そこで本論文は、このような幕末政治史をより広い視点から捉え直すことを試みている。具体的には、安政文久期(1854–1863年)における幕府の制度改革とそれに伴う各藩の政治改革が検討される。
 幕府が安政文久期に進めた制度改革のなかで、その後の藩政に大きく影響を及ぼしたのは、嘉永6(1853)年9月15日の大船建造禁止令の解禁であった。もちろん、それ以前にも海防の責務が課せられていた一部の藩では、大船建造の方途を模索されてはいたが、幕府がその解禁に踏み切ったのは、やはりペリー来航が大きかったと言える。そして、この「祖宗之法」改編によって、各藩の軍事への対応は大規模化を余儀なくされることになる。すなわち、藩はこれまでのように小船による海防に留まるのではなく、大船を製造する技術とマンパワーを自らで集め、「海軍」を組織しなくてはならなくなったのである。事実、江戸湾には長州・岡山などの外様大名が、蝦夷地には東北大名が、大阪湾・京都には小浜藩郡山藩などが警衛に動員されている。そして、これらは明らかに各藩の負担を増加させたのであった。
 この制度改革と並行して進められたのが参勤交代の緩和である。文久2(1862)年から文久4(1864)年における文久の幕政改革によって、参勤交代の経費を軍艦購入と相殺できる可能性が生まれることになる。一見、このような参勤交代の緩和は領主たちの負担軽減という消極的な理由のように思えるが、実際のところ幕府は江戸を戦場とみなすことで軍事改革を進めようという積極的な施策を講じたと考えることができる。また、このとき同時に、諸大名が幕府の政治・軍事に関する意見を上申すること、および、それらについて大名相互で談合することが許可されるようになったことも注目に値する。ただし、一方の大名側は参勤交代の緩和は主として経費削減につながるものであると捉えた。そのため、1862年に輸入制限が解除され、参勤交代が緩和したことを受け、各藩はこぞって欧米から軍艦購入をおこなったのである。そして、それにより自藩の軍事改革に乗り出そうとしたのであった。ここにおいて各藩は藩政改革を本格化させることが可能になったと考えられるのである。
 しかしながら文久2(1862)年の後半より、諸大名は京都警衛というまた別の負担を今度は朝廷より強いられるようになる。それまで一部の藩に限られていた京都警衛であったが、万石以上の藩は10年に一度の京都参勤が課せられたのである。そのため、文久4(1864)年の禁門の変に端的にあらわれたように、京都に参集した諸大名たちはいつでも戦闘が出来るように、その準備を余儀なくされることになる。そんな中、諸大名のさらなる負担増が予期されるような事態が発生する。それが文久4(1864)年の参勤交代の復古論である。当時、文久改革の反対者が幕府内で伸張し、参勤交代を改革前のものに戻すことにより、諸大名の統制の修復を試みようとしていた。しかし当然のこと、この発案に対する大名の姿勢は否定的なもので、長征という今まさに直面する負担に加え、参勤というさらなる負担はどうにか避けようとし、実際、薩摩藩島津久光は二条関白と幕府に対し批判を送っている。このように、文久期の終わりには、もはや幕府は諸大名を統合・統括することはできなくなっていたのであった。

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