日本医学図書館と明治期神田の医師・政治家・キリスト教者:堀江幸司「「日本医学図書館」と金杉英五郎」、「「日本医学図書館」」(1985)

 明治30(1897)年に設立された日本医学図書館の歴史に関する論文を読みました。日本医学図書館は関東大震災によって幕を閉じることになりますが、その施設は当時の医学者や政治家、キリスト教者と関係のなかで生まれたものであり、非常に興味深い研究対象であると思います。

堀江幸司「「日本医学図書館」と金杉英五郎」『医学図書館』32(2)、1985年、187–191頁;「「日本医学図書館」――神田駿河台周辺と明治35年以降の「日本医学図書館」」『医学図書館』32(3)、1985年、290–297頁。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/reposit-horie/newpage1.html
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 本稿は、19世紀末にに設立された日本医学図書館の歴史について、それが設立される前史から関東大震災による消失までの歴史を概観したものである。明治20年代から全国で起きた図書館設立運動と呼応するかのように、明治30(1897)年に東京基督教青年会館の図書館のなかに日本医学図書館が設置された。その創始者は、神田衛生会のメンバーである遠山椿吉(東京顕微鏡院・院長)・川上元治郎(日本医事週報社・社主)・川上昌保(医学博士、キリスト教徒)らであった。その設立目的は、医師を目指す者へ医学書と勉学をおこなう場所を提供することであった。翌年には開館式がおこなわれ、時の衛生局局長・後藤新平ら医政界の要人も来賓として招かれている。
 日本医学図書館がつくられた頃の神田地区は医学のメッカとも呼べる地域であった。神田・駿河台には学者・医者・華族・財界人が集まっていたし、神田・小川町にはキリスト教各派の社会伝道の場となっていた。駿河台には東京耳鼻咽喉科病院があり、その院長を金杉英五郎がつとめており、小川町には遠山椿吉・川上元治郎によって設立された東京顕微鏡院があり、その院長は遠山であった(なお、大正15(1926)年にはその一室に医学図書室が設置されている)。さらには、日本医学図書館が設置された東京基督教青年会館は、神田・美土代町に明治27(1894)年に設立されたものであった。
 日本医学図書館に所蔵された医学書は、各自の持ち寄りだったり、一般人や出版社から寄贈を受けたものであった。たとえば、日本医学図書館へは、明治36(1903)年に姫路の民間人が獨逸出版の医学書など200点を寄贈し、東京化学会長・高松豊吉も独逸書など300冊前後を寄贈している。それらは希望者に無料で閲覧に供された。
 明治35(1902)年になると日本医学図書館の医学書は、広く公衆の閲覧に供するために、帝国教育会書籍館の附設文庫に移管・拡張された。このとき、日本医学図書館の理事長となったのが、のちに東京慈恵会医科大学創始者となる金杉英五郎(1865–1942)だった。明治44(1911)年、帝国教育会構内に東京市立神田簡易図書館(2年後に一ツ橋図書館に改称)が設置されたことを機に、日本医学図書館もそこに移管されたと考えられる。しかし関東大震災によって、その図書館が焼失してしまったことから、日本医学図書館もこのときに無くなったと考えられる。その後、日本医学図書館の機能の一部は全国の医科大学に分散し、その歴史を終えたのであった。