サートンの「科学史」構想と20世紀初頭のベルギーにおける知的ネットワーク:Pyenson & Verbruggen "Ego and the International"(2009)

Lewis Pyenson and Christophe Verbruggen, "Ego and the International: The Modernist Circle of George Sarton," Isis, 100(1), 2009, pp. 60–78.
http://www.jstor.org/stable/10.1086/597572
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 サートン(George Sarton, 1884–1956)は自らを社会主義者とみなし、社会改革を促進しようとした人物である。彼の学問的な目標は、芸術家のエルウィズ(Mabel Elwes)と結婚した1911年頃に具体化したと考えられる。すなわち、フランス陣数学者兼数学史家のタンヌリー(Paul Tannery, 1843–1904)が果たせなかった一般的な科学史を書き、科学史を一学問分野として発展させることである。サートンがその構想を練っていた時代は、ヨーロッパの「良い時代 Belle Époque」(1890–1914)とちょうど重なっている。この時代は、フェミニズムや平和主義、社会主義さらには宗教的、物質的、科学的、音楽的、芸術的な様々な活動が活況を呈した時代であった。そして、サートンは20世紀初頭のそういった知的環境のなかで、Isis発刊へとつながる彼の思想を育んだのである。
 サートンが若き日を過ごしたベルギーは、小さい国であるため知的交流が容易であり、当時は国際平和主義が盛んであった。彼に大きな影響を与えたのは、既に功績をなしていた二人のベルギー人年長者である。すなわち、1895年に国際書誌協会を設立し、情報科学で先駆的な活躍をおこなったオトレ (Paul Otlet, 1868–1944)と1913年にノーベル平和賞を受賞する上院議員のラ・フォンテーヌ(Henri-Marie La Fontaine, 1854–1943)である。二人は1907年に国際連盟を設立したことでも有名であるが、それにもあらわれているように、彼らは国を超えたネットワークの構築に熱心であった。サートンは、そういったの知的サークルに出入りすることで、雑誌Isis(彼がその名前をつけたのは1912年であったが)を彼らの教義に従わせようと考えたのであった。
 まず、オトレとサートンとの間の書簡のやり取りからは、1913年に創刊されたIsisに対しオトレが賛辞を送っていることがみてとれる。オトレは、サートンの成果は「科学」をより拡張させるための基礎となると評価し、それが自らの国際事業にも大きく貢献すると捉えた。サートンもまた、オトレが知識の組織化を行おうとしたことに、Isisの取り組みを接続させようとした。一方、ラ・フォンテーヌとサートンとのやり取りからは、Isisが刊行する前のサートンが、ラ・フォンテーヌが創刊した雑誌La Vie Internationaleで、科学史が取り上げられていないことに不満を表明していたことがわかる。さらにサートンは、第一次大戦開戦に伴って、国際的な平和主義組織を維持していくことが難しくなることをラ・フォンテーヌにもらしている。このように、1910年代にサートンは当時のベルギーの知的サークルとの交流でその思想を形成していった。しかし、1910年代末になると彼の心は次第にアメリカへと移っていくのであった。