ドイツ医学史とナチズム:Rütten "Karl Sudhoff and 'the Fall' of German Medical History"(2004)

Thomas Rütten, "Karl Sudhoff and 'the Fall' of German Medical History," Frank Huisman and John Harley Warner, eds., Locating Medical History: The Stories and their Meanings, Baltimore and London: Johns Hopkins University Press, 2004, pp. 95–114.

Locating Medical History: The Stories And Their Meanings

Locating Medical History: The Stories And Their Meanings

 本論文はドイツの医学史家ズートホフ(Karl Sudhoff, 1853–1938)の評伝であり、彼の国内外における知的ネットワークと、ナチへの傾倒によるドイツ医学史の衰退という二つトピックを中心に論じている。ズートホフは20年ほど文献史学的なアプローチでパラケルスス研究をおこなっていたが、1901年にはドイツ医学史・自然科学史・技術史協会(Deutsche Gesellschaft für Geschichte der Medizin, Naturwissenschaft und Technik; DGGMNT)を設立し、1905年にはドイツ・ライプチヒ大学の医学史研究所に着任し、ドイツ語圏で最初の医学史教授となった。彼はその研究所を活動拠点にして、国内外でのネットワークを形成していく。たとえば、ドイツ国内の図書館をくまなく歩き回って医学史資料を収集したり(ただし、これらは世界大戦によって焼失してしまった)、ハンガリー人医師ジェルジ(Tibor Györy, 1869–1838)という友人の協力により、国内で医学史研究をする者たちとコンタクトをとった。一方で海外の研究者との知的交流を進め、英語やフランス語で記された新しい研究を国内に素早く紹介した。こうして、ドイツ医学史界で大きな成功をおさめた彼は、次第に世界中の医学史家のなかで最も注目を集める人物となっていった。
 しかし、1933年4月28日に友人のジェルジに送った手紙において、ズートホフはヒトラーを支持することを表明する。さらに彼が国家社会主義ドイツ労働者党に入党したことにより、ドイツにおける医学史に暗雲が立ちこめる。とくに1933年4月7日に「職業官吏再建法」が制定されたことにより、コッホ(Richard Koch, 1882–1949)やパーゲル(Walter Pagel, 1898–1983)といったユダヤ人医学史家は、その職だけでなく住み家を奪われることになった。1933年9月に開催されたDGGMNTの年会で大会長のディープゲン(Paul Diepgen, 1878–1966)はコッホやパーゲルが教職を追われたことをひどく悔やんだ。しかしながら、ディープゲンやズートホフは、その協会の新たな目的がドイツ国民の伝統・文化を保持すること、そして国家政治教育に奉仕することであると宣言せざるをえなかった。そういった変化をいち早く感じ取っていたテムキン(Owsei Temkin, 1902–2002)や非ユダヤ人のシゲリスト(Henry Sigerist, 1891–1957)はその前年にアメリカに渡っていた。1933年11月、ズートホフはズートホフ賞をディープゲンとシゲリストの共同受賞にしようと取りはからう。これは、世界からの孤立化を進めていくDGGMNTに対して、それを食い止めようとするズートホフの最後の試みであったと思われるが、結局、ドイツ医学史の衰退を止めることはできなかったのである。