洋学史学会・7月例会(2013年7月14日、於:電気通信大学)

 洋学史学会の例会に参加してきましたので、報告記を。

福岡万里子「幕末外交史の日本=プロイセン修好通商条約/オランダによる〈世界貿易への日本開国〉?」、平野恵「舶来植物が本草学に与えた影響」洋学史学会・7月例会(2013年7月14日、於:電気通信大学

 福岡万里子さんによる報告は二部構成となっており、前半部では「幕末外交史の日本=プロイセン修好通商条約」というタイトルで先日出版されたばかりの『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』の第3・4・5章に関して、後半部では「オランダによる〈世界貿易への日本開国〉?」というタイトルで同書の1・2・6章に関する部分についての報告がおこなわれました。
 前半・後半に共通していたのは、日本とプロイセンあるいは日本とオランダとの関係性をみる際に、二国間の問題に限定するのではなく、多国間との関係を合わせみた上で、二国間の問題を論じているという点でした。たとえば前半部の発表では、日本とプロイセンの通常条約が、幕府の他国との間の外国政策との関連で捉えられています。安政の五カ国条約を締結した後の井伊直弼政権では、これ以上新たな通商条約を結ばない方針を掲げました。一方で、五カ国条約によって新たに指定された開港開市も、イギリスからのプレッシャーがあったために、それを延期したくても出来ない状況でした。そんな中、プロイセン使節が日本にやって来ましたが、幕府はアメリカの公使ハリスと相談しながら、プロイセンとの条約締結を利用しようとします。つまり、開港開市の延期および今後は当面新規の条約を結ばないことを盛り込んだ条約をプロイセンと結ぶことによって、幕府の二大外交懸案を打開しようとしたのでした。
 平野恵さんによる「舶来植物が本草学に与えた影響」という報告は、江戸時代の草木に関する図版やそこでの名付けられ方に着目し、本草学者と植木屋(園芸職人)あるいは絵師たちの間の見方の違いを浮かび上がらせるものでした。かつて絵師たちは花々に名付けるときに、「星月夜」などのように雅やかな名前を好んでつけていました。しかし、嘉永7(1854)年に成田屋留次郎という植木屋によって記された『三都一朝』では、「青乱菊水変飛龍葉極紅数切牡丹度咲」といったように、外見の観察に即して花の名付けがおこなわれたのでした。ただし、そういった名付けを植木屋が勝手におこなっていることに対する本草学者の不満もあったようで、たとえば、弘化2(1845)年にノーゼンハレンという花が伝来したとき、植木屋が俗名をつけたことを非難している記述が残っているようです。

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