現地ニーズにあわせた「攻撃型」伝道:石井紀子「アメリカ女性医療宣教師の中国と日本伝道」(2005)

石井紀子「アメリカ女性医療宣教師の中国と日本伝道――メアリ・アナ・ホルブルックの場合(1881年〜1907年)」『日本研究』(国際日本文化研究センター)30、2005年、167–191頁。
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/1743
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 アメリカの女性宣教師メアリ・アナ・ホルブルックは、1880年代から1900年代にかけて、北中国と日本にミッションとして赴任した。伝道地では男女の明確な役割分担があったこともあり、男性宣教師は主として牧会や聖書翻訳を、女性宣教師は教育・医療・福祉事業を通じた伝道をおこなった。彼女は1880年ミシガン大学で医学博士号を取得した医師であったため、中国と日本で医療や教育事業を通じた伝道活動をおこなったのである。本論文は、その活動に関する宣教師書簡を手がかりに、両地域の特徴に即して進められた伝道の実態を明らかにしている。
 ホルブルック自身の言葉を借りれば、中国における医療伝道の手法には三つの形態があった。第一は「リベラル型」で、中国で既に根付いている儒教の可能な部分にキリスト教を「接ぎ木」することを試みるものである。その実践例としては医療・教育事業などであったが、結局、それは中国人の外国人に対する偏見を和らげることができるが、必ずしもキリスト教の伝道にはつながらないとされている。第二は「保守型」であり、福音の直接的な伝播など伝道中心の活動をおこなうことを主眼とするものである。ここでは、医療や高等教育などはあくまでそのきっかけにすぎず、副次的なものであるとみなされている。第三は「攻撃型」であり、これら前二者を折衷的に取り入れたものである。すなわち、まずは現地の人びとがもっとも必要とする知識・技術として、クリスチャン・サイエンスを提供し、その後、科学への探究を通じて神の真理へと向かわせようとするものである。
 ホルブルックの中国での医療伝道(1881–1887年)は、まさに「攻撃型」とでも呼べる手法で進められた。1881年に通州(現、通県)へと赴任した彼女は、貧困層の中国人女性を対象にして医療活動を開始した。既に1880年代の中国では、メソジスト派のミッションが医療宣教を活発におこなっていたが、中国では医療の場においても男女が厳格に分離されていたため、貧困層の女性はそういった恩恵を十分に受けていなかった。そのため、ホルブルックの医療伝道は現地のニーズにも合っており、着実に患者数を増やしながら、伝道がよりよい成果をおさめていったのであった。しかしながら、彼女はコレラをはじめ相次いで疾病に罹患し、1887年に帰米を余儀なくされた。このとき、既に男性医師が北中国にいることを受けて、自分の後任として女性宣教医師を派遣することを強く要望した。そこには、自らが開拓した女性・家庭を通じた伝道という道筋を失ってはならぬという強い意志があったのである。中国における医療伝道は男女を問わず総じて成功したが、ホルブルックもまたそこでの医療伝道に手応えを感じていたのであった。
 一方、日本での伝道(1902–1905年、および、1907–1910年)の際には、ホルブルックは中国と同じように医療伝道をおこなうことはできなかった。その理由として、日本人医師たちは彼女の医療行為に対して目を光らせていたこと、また、このときは貧困層というより旧士族層との接触が中心であったことがあげられる。しかし、中国での貧困女性の医療ニーズに応えたように、日本でも彼女は現地のニーズをくみ取ろうとした。それが日本における女子高等教育の普及であった。その成果として、神戸英和女学校(1875年に創立され、1894年に神戸女学院に改称)のカレッジ昇格への貢献があげられる。その背景には日本におけるキリスト教系女学校の急速な拡大と、それに伴って、女性校長をつとめることが出来る人材へのニーズの高まりがあった。当時の神戸英和女学校にはそれに応えることができるほどの教育体制にはなかったし、帝大への女性の入学が難しかったため、アメリカの大学への留学を通じて、高等教育を受けた人材を供給するしかなかったのである。しかし本国では、長期的なコストを勘案し、神戸英和女学校をカレッジへと昇格させ、そこで高等教育を受けさせることで、問題を解決しようと考えられるようになる。その結果、1891年からカリキュラム改革が進められ、同時に、同校での理科高等教育体制も整備されていった。このとき、1892年から同校へ赴任していたホルブルックの尽力が大きく、1894年に晴れて神戸女学院、英名でKobe Collegeとなったのである。