目が見えなくなること、人間であり続けること:足立貴美子「なぜ彼は」(1961)

 第4回ハンセン病文学読書会に参加しました。今回は足立貴美子さんによる「なぜ彼は」(1961年)という短編小説を読みました。著者の足立さんは、本作品の舞台である栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん;群馬県吾妻郡草津町)の入所者の方でしたが、それ以外の経歴については詳しくわかっていません。また、本作品の主題となっている綿打機での事故は、同園で1959年に実際に発生した事故をモチーフとしています。以下、簡単に本作品の紹介を。ネタバレ注意。

足立貴美子「なぜ彼は」『多磨』4月号、1961年、20–33頁。

 1960(昭和35)年3月20日の午前、栗生楽泉園に入所していた一人の男が綿打ち機に飲み込まれて死亡した。彼の名前は外様亮介と言ったが、検死の結果、彼の視力が極度に悪化していたために、誤って機械に巻き込まれてしまったことがわかった。実のところ、彼は事故の半年前に既にららい性の虹彩炎であると医師から診断されていた。そして、当然医師も外様に綿打ちの作業を続けることをやめてはどうかと提案していた。にもかかわらず、外様はそのことを固辞し、その後、事故に遭うまで半年にわたって作業を続けたのであった。ではなぜ彼は作業を続けたのだろうか。その表向きの理由は、彼が「不自由舎」に入ることへ強い拒否感を示したからである。「不自由舎」とは、障害などの理由で身の回りの世話を自分でできない人々が集め入れられた場所であり、「健康舎」にいる外様たちにとっては、「やつらはまるで豚じゃないか」と形容されていた程の場所であった。しかし、そういった理由だけでは、自分が作業を続けることを正当化することができなかったのである。
 外様は作業を続けることにこだわる理由を自問し、早くも半年が過ぎようとしていた。外様が事故に遭うことになる日の午前、彼は15年前に楽泉園にいた宗像平次という同郷の男のことを思い出していた。宗像もまた当時目を患っており、半盲に近い状態であった。そして、彼は目が悪化しながらも仲間との博打を続け、仲間は彼が見えないことをいいことにいかさまをし続けた。そのため、いつも宗像は負けていた。そんなある日、園内での博打の横行を見かねた所長が、博打をおこなっていた者たちを一斉摘発し、施設内の監房へ投獄した。このとき、半盲であったこと、そして一方的に搾取されていたこともあって、宗像だけは免責されることになった。しかし、自分だけ見逃されたことに宗像は憤り、「おれだけばなんでゆるされるとか!おれもバクチをやったんじゃ、みんなとおなじように監獄ぶちこまんとか!」と言い放ったのであった。当時、事のなりゆきを端から見ていた外様は、宗像の言動の意味が理解出来なかった。なぜ彼は仲間にだまされながらも博打を打ち続けたのか。なぜ彼は自分だけ免責されたのに、自分も監獄に入れろと憤ったのか。しかし、同じように目を悪くし、作業を続けてきた外様は、このときやっと宗像の行動の理由がわかったような気がした。
 午前の綿打ち作業を続けながら、かつての宗像の意図を悟った外様の目前には、宗像の幻影があらわれていた。その宗像に外様は、「バクチに執着しているあいだは、おまえはまさしく生きた人間じやつた」と声をかけ、当時を述懐する。しかし、それに対する宗像の反応は想像していたものと異なっていた。確かに、宗像は外様が作業を続けているように博打に打ち込み、一斉摘発によって博打を奪われると、活力が奪われたようになった。その姿は外様からみると、ミイラのように見えたのだろう。しかし、外様は博打が打てなくなったあとも、自分は人間として生き続けていたのだと誇るのであった。だからこそ、宗像は外様に作業だけが生きることの全てではないと諭す。そために、かつて自分たちが卑下していた「不自由舎」の人々もまた、立派な人間であることを認識する必要があった。宗像のその言葉に強く頭を打たれた外様は、今後自分はどのように生きていけばよいかという問いに頭を巡らせる。しかし、気がつくと彼の体は綿打機に飲み込まれようとしていた。