日本科学史学会生物学史分科会・STS Network Japan共催シンポジウム「生物学史と生物教育」(2013年6月30日、於エル・おおさか)

 生物学史分科会のシンポジウム「生物学史と生物教育」に参加してきましたので、簡単にその参加記を。

日本科学史学会生物学史分科会・STS Network Japan共催シンポジウム「生物学史と生物教育」(2013年6月30日、於エル・おおさか)
http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~ft12153/hisbio/sympo_j.htm

 2012年より高校の生物学の教科書が全面刷新となりました。この新課程版の教科書では、歴史的な事項などが多くそぎ落とされ、代わりに最新の生物学分野における知見を多く採用しています。その象徴的な事例はメンデルの遺伝法則が紹介されなくなったことでしょう。というのも、今やDNAで生物学のほとんどは説明がつくのであって、もはやメンデルの形質や遺伝の話から始める必要がなくなったと考えられるようになったのです。同様にして、生物学者の名前やその経歴なども「コラム」や「発展」という本文外に押し入れられることになり、唯一、本文中に名前を残せたのはワトソンぐらいなのでした。このように、新しい生物学の教科書は、分子生物学的な生命現象を基礎として大きく書き換えられ、歴史的な事項はほとんど教えられることはなくなったのです。このような状況をもって、メディアや現場などは、生物学の教科書が「現代化」したと呼んでいます。
 瀬戸口明久さんによる開催趣旨では、まさに生物学の教科書が「現代化」している今日において、今一度、生物学史が生物教育に貢献しうる点について論じるものでした。貢献について考える上で参考となるのは、最近の化学史学会の取り組みです。L.H.ルヴィア著の『入門化学史』を翻訳・出版するなどして、一般向けの化学史の通史を積極的に提供しようとしているのです。海外でも、Joel HagenによるDoing Biologyという生物学史を多く含んだ生物学の教科書が既に出版されていますが、同様の活動が日本の生物学史においても可能なのかもしれないと、瀬戸口さんは一つの方向性を示唆するのでした。
 そのような開催趣旨のもと、高校の生物の授業や、大学学部における医学の授業において実際に生物学史・医学史を教えた経験に基づいて、三人の方が生物・医学における歴史教育の意義を提示していました。加納圭さん(滋賀大学教育学部)の「現代化運動ともいわれる新課程高校生物における生物学史の取扱」では、旧課程と新課程の教科書の記述の変化を詳しく検討します。そうすることで、新課程では科学に対する専門的な知識を教えることの比重が大きくなったこと、つまり、仮説・実証・理論という直線的で単純な科学知識観を全面に押し出す記述となったことを指摘します。それに対し加納さんは、科学であるから正しいと思考停止してしまうことから抜け出すためにも、生物学の歴史を紹介しながら、科学の不確実性や科学が生み出されるプロセスを生徒に示すべきだと主張するのでした。
 塩川哲雄さん(大阪府立布施高等学校)の「高等学校における生物学史教材の実践――体系的教材の試作と単発的な題材の紹介」は、長年にわたる高校での教育経験に基づき、実際にどのようにして生物の授業に歴史的な視点を導入したかの事例紹介がおこなわれました。塩川さんは「病気の歴史」という題材で、コッホとペッテンコーフェルの論争やパストゥールのフラスコ、さらには結核の歴史などを高校生に教えたそうです。これに対する生徒の反応は、必ずしもいつも良かったわけではありませんでしたが、AIDSの歴史について教えた回では、かなり学生は興味津々であったそうです。
 福井由理子さん(東京女子医科大学)の「生命科学関連の専門職養成大学の教育と生物学史/科学史」では、福井さんの所属する東京女子医科大学における歴史などの人文系の教育の実践について紹介したものです。最近でも文科省は医学部・学部教育の問題を指摘しており、たとえば、その一つに医学・医療をサイエンスという側面からのみ教えるのではなく、サイエンスとアートの混合として教えるべきだという議論が出てきています。それを受け、東京女子医科大学では、模擬診療をおこなったりすることで患者とのコミュニケーションのやり方についてスキルを身に付ける授業や、あるいは、コメディカルという観点から様々なタイプの医療従事者と関わり合う授業が必修化されているそうです。
 ディスカッションでは、コメンテーターとして田中幹人さん(早稲田大学政治経済学術院)が、高校・大学教育において生物学史・科学史を教えることの意義を指摘しました。生物学教育ではしばしば無謬の歴史が描かれてしまいがちですが、実際の科学はそんな風におこなわれるわけでなく、さまざまな失敗や社会的な干渉のもとに進められます。そういった側面を描き出すためにも、田中さんは学史が教えられるべきと主張するのでした。
 フロアからのコメントでは、溝口元さんが最近の科学史学会の歴史を紹介しつつ、かつては高校教員の科学史会員が多くいたことを引き合いにだしながら、今後、科学史学会は再び高校・大学における科学史教育のカリキュラムを提案するなど、具体的にアクションをおこしていく時期が来ているのではないかと提案されていました。溝口さんのエピソードで興味深かったのは、氏の科学史の授業に対する理系学生のなかでの反応の違いです。たとえば、比較的若い学生はそれが科学者を貶めていると映り強い反発をもつことが多いそうですが、一方で院生は面白がって聞いてくれることが多いということです。

関連文献

入門化学史 (科学史ライブラリー)

入門化学史 (科学史ライブラリー)

  • 作者: T.H.ルヴィア,内田正夫,Trevor H. Levere,化学史学会
  • 出版社/メーカー: 朝倉書店
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 1回
  • この商品を含むブログを見る

Doing Biology

Doing Biology

スキャンダルの科学史 (朝日選書)

スキャンダルの科学史 (朝日選書)