19世紀から20世紀初頭における「狂気=神経」の治療:ショーター『精神医学の歴史』(1999)

エドワード・ショーター「第四章 神経」『精神医学の歴史――隔離の時代から薬物治療の時代まで』木村定訳、青土社、1999年、145–181頁。

精神医学の歴史―隔離の時代から薬物治療の時代まで

精神医学の歴史―隔離の時代から薬物治療の時代まで

 第三章では、グリージンガー(Wilhelm Griesinger, 1817–1868)に代表される生物学的精神医学が19世紀半ばのドイツで隆盛することが示され、その終焉が同じドイツ人のクレペリン(Emil Kraepelin, 1856–1926)による生活史的なアプローチによってもたらされたことが指摘された。一方、第四章「神経」は前章と同じ19世紀から20世紀初頭までを主たる対象とし、精神疾患の理論ではなく治療についての歴史をまとめている。ここで明らかにされるのは、19世紀の生物学的精神病学の発展により、神経解剖学的な問題に関心を集中させていた精神病学者たちを横目に、神経科医たちが患者の治療に強くコミットしたということである。そしてその背景には、「狂気」という伝統的な精神医学を想起させる言葉から、「神経」というよりニュートラルなニュアンスをもつ言葉を大衆が好むようになったという事態があった。
 まず、精神疾患を捉える言葉が大衆の間で変化していったことが示される。19世紀において、精神疾患の患者家族は、彼が狂気の名の下にアサイラムへ収監されてしまうことを出来るだけ避けようとした。たとえば、伝統的な精神医学で使われていた心気症やメランコリーといった症状は容易にそれが「狂気」を示すものだと考えられたため、代わりに「神経」という言葉を使って症状を診断するのが医者に期待されるようになった。病院の名称も同様に変更され、たとえばドイツの「狂気と精神遅滞のための私立収容所」は、開設から11年後の1858年には「脳と神経の病気のための私立収容所」となっている。こういった名称変更は、一見、同時代に進展した生物学的精神医学に即して進められた思われるかもしれないが、実際は単に大衆の希望におもねる形でおこなわれたに過ぎなかった。人々はとにかく親族がアサイラムに行くことを避けようとしたし、だからこそ総合病院や内科の病院を精神疾患者があふれかえることになった。
 アサイラム精神疾患の者を連れて行くことを忌避するために、家族がその患者を連れて行ったのは温泉であったり、水治療法や電気刺激治療法を提供してくれる私立のクリニックであった。そもそも、ヨーロッパでは湯治は古くからおこなわれていたが、この時代にまさに湯治あるいは水治療が精神疾患の治療と明確に結びつけられるようになったのである。とりわけフランスの温泉には神経の病気をもつ者が多く集まった。たとえば19世紀末に、水治療法と電気刺激療法の専門家フェルナン・ルヴィランは、ロワイヤの温泉からはリューマチなどの整形外科的な患者だけでなく、神経衰弱などの精神疾患の患者も大きな効用を得ることができると述べている。フランスの温泉地では、イギリスの精神科医が無節操に温泉をすすめたのとは異なり、それぞれの鉱泉に効果的な神経症が細かくリスト化されていった。一方の水治療クリニックにも中産階級の患者を中心に人が多く集まった。しかしながら19世紀も終わりに近づくと、そういった水治療クリニックは「狂気のアサイラムへの見せかけの入り口」であると大衆に知られるところとなり、患者とその家族はアサイラムからの逃避場所としてまた別の施設を探し始めたのであった。
 このときに代わりに注目を浴びたのが、アメリカの私設クリニックで提供されていた「休息療法」であった。この療法は、サイラス・ウェア・ミッチェル(Silas Weir Mitchell, 1829–1914)というアメリカ人医師が1875年に神経衰弱治療のために考案したものである。主として富裕層の患者におこなわれたこの治療法は、ベッドでの安静を強要する隔離、ミルクを用いた食事療法、電気刺激治療法、マッサージなどで構成されており、実際にある程度の治療成果を残した。なお、この療法は「子どものような従順」な患者に効果があるとされたため、一見、心理学的な療法にも思えるが、ミッチェルはあくまでこの療法を血液の流れなどの器質的な観点から捉えようとしていた。その後、この治療法はヨーロッパにも広がったが、医者たちはその治療法の器質的な側面ではなく、心理学的な側面に大きな関心を払っていく。たとえばフェルナン・ルヴィランは、ミッチェルの解説書をフランス語で書くとともに、その治療における心理学的な力を強調している。さらにイギリスの大学で神経学の講師をしていたブラムウェル(Edwin Bramwell, 1873–1952)が、1923年に休息療法における「暗示」の機能を指摘している。
 このように、世紀転換期の神経科医たちは「暗示」といった精神療法による治療への関心を高めていった。彼らが導入を試みた「暗示」による精神療法は、とりわけ1880年代に再発見された医学的催眠術の系譜をもつものであり、それは精神疾患を器質的に捉える彼らの見方とは必ずしも対立するものではなかった。たとえば19世紀終わりにチューリッヒ大学の精神科の教授であったフォレル(Auguste-Henri Forel, 1848–1931)は、神経解剖学に強い関心をもつ器質論者であり、同時に優れた催眠術師であった。フランスでは1893年にはじめて、心理学的な志向をもつ神経科医のジャネ(Pierre Janet, 1859–1947)によってサルペトリエールという精神医学センターに精神療法が導入された。ジャネの後にサルペトリエールにやって来たデジュリーヌ(Joseph Jules Dejerine, 1849–1917)は、休息療法を修正した隔離サービス部門を導入し、ジャネの精神療法を引き継いだ。こうしてフランスでは、精神疾患者に対する治療は神経科医による精神療法によって進められた。しかし20世紀の初頭に、精神医学者のバレー(Gilbert Ballet, 1853–1916)が精神医学の対象範囲の拡大をはかり、その一方でデジュリーヌは神経科学の対象をきわめて限定的に捉えた。その結果、精神科医たちは第一次大戦によって増加する「神経症」患者の獲得に成功し、神経学学者は中枢神経系の病気の異常を取り扱うといった専門化の道を進めていくことになった。