植民地時代から第二次大戦後までのアメリカにおける医学教育:Kaufman "American Medical Education”(1980)

Martin Kaufman, "American Medical Education,” Ronald L. Numbers, ed., The Education of American Physicians: Historical Essays, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1980, pp. 7–28.

The Education of American Physicians: Historical Essays

The Education of American Physicians: Historical Essays

 本論文は、植民地時代から第二次大戦後に至るまでのアメリカにおける医学教育の歴史を概観するものである。19世紀になってもアメリカの医師の大半は徒弟制度によって医師としての訓練を受けていた。そういった制度は植民地時代にみてとれ、16歳以下の少年は師のもとで従者として5〜7年ほどの訓練を受けていたという。彼らは馬の世話をしたり、部屋を片付けたり、請求書を集めたりしながら、師の診療の様子をみることで医学について学んだのである。そういった少年たちのなかで、上流階級のごく限られた者だけがエディンバラ大学などのヨーロッパの医学校に学びにいくことができた。そして、そういった人物が各地の医学校の教授職に就くことになる。なお、植民地時代の医師は全部で3000人ほどであったが、そのうちヨーロッパで学ぶことが出来たのは300人ほどであった。
 アメリカで最初の医学校が設立されたのは、1765年のフィラデルフィアにおいてであった。エディンバラ大学で医学を学んだ者たちは、植民地にも医学校をつくる必要を感じ、その大学医学部を範にした医学校をつくったのである。1768年には10人の生徒がその学校から医学学士を受けた。19世紀初めまでにはハーバードをはじめとして合計5つの医学校が設立され、その後も各地に次々と医学校が設立されるようになっていった。具体的には、1810年から1840年の間には26校が、1840年から1877年までには47校が新たに設立され、1876年までには全国で80の医学校が存在していた。そういった医学校を設立しようとした理由としては、なんといってもその経済的な利潤があげられる。この頃の医学校はその運営費を多額の授業料を払ってくれる学生に完全に依存していたために、他校と競うようにして学生の獲得に熱心になっていた。そのため、学校間での競争も激しくなり、学位獲得に必要な授業期間を短くするなどして学生の関心を引こうとした。なお、アメリカの医学校で基礎として教えられたのは、解剖学、植物学、化学、婦人病・小児病、博物学、産科学、生理学、医療の原理・実践、外科の原理・実践の9科目であったという。
 金ぴか時代(1865–1893年)になっても私立の医学校は増加し続けた。1880年には90校であったのが、1890年には116校になり、1900年には151校にまで増えている。しかしながら医科学の発展により、医学に係る費用がかさむようになると、各校はこれまでのように学生の授業料のみに頼って学校を運営するのが難しくなりはじめる。同時に、医学の内容自体も高度になっていき、これまでのような伝統的なカリキュラムでは対応できないようになっていった。そういったなかで、理想的な医学校のあり方を提示したのが、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス医学校であった。この学校は、大学からの補助金を引き出し、生徒の学費への依存からの脱却に成功した。同時に、ドイツの医学教育に範をとり、4年制であり、ラボでの実験や臨床教育に重きをおくカリキュラムへと刷新した。それに伴い、世紀転換期にはアメリカ医学校における医学教育を改善しようという動きがあらわれはじめる。たとえば、1890年にはアメリカ医師会(American Medical Association; AMA)が医学教育の改善について議論する年会を開いたし、その年会はアメリカ医学校協会(Association of American Medical Colleges; AAMC)という新組織へとつながり、1903年にはAMAがのちに医学教育評議会(Council on Medical Education)となる委員会が立ち上げられている。
 こうした流れのなかで、20世紀初頭にアメリカ医学教育の大改革を提案する、歴史的な報告書が提出される。その報告者は、教育者として知られていたフレクスナー(Abraham Flexner, 1866–1959)であった。彼はまず、全国の医学校が定員割れを防ぐために、入学基準に違反した入学を許していることが問題視し、さらに医学校の実験室や臨床施設が不十分であることを指摘した。フレクスナー報告を受けて、AAMCやAMAの医学教育評議会は、全国医学校の調査に乗り出し、基準を満たさない私立の医学校などは次々と閉鎖させられていった。こうして、1910年には155校あったのが、1920年には85校となり、1941–1942年には77校にまでその数は激減していった。
 しかしながら、フレクスナー報告によって問題がすべて解決したわけではなかった。医学の専門分化が進んでいたために、これまでの医学教育のカリキュラムを保持していくことが難しくなるという、新たな問題が生まれていたのである。すなわち、どの医学生もすべての専門分野を学ぶ必要があったために、既存のカリキュラムに加えて新たに生まれた専門分野を短い時間で教えられるようになり、学ぶべきことが飛躍的に増加していった。その結果、医学に関連する人文学や社会科学などがカリキュラムから削除されるようになり、医学教育が科学化が進んでいったのである。そのような事態を打開するために、各人のキャリアプランに即したカリキュラムへと作り直すべきだと提案されるようになる。なかでも、ウェスタリザーブ大学の取り組みは先駆的であり、1950年に同大学は学生の必修科目を減らし、それぞれの関心に応じた選択科目を多くとれるようなカリキュラムをはじめた。そして1950年代から1960年代はじめ頃には、ウェスタリザーブ方式が各医学校でも実施されるようになっていくのであった。