西洋、日本への対抗としての医学思想:愼蒼健「覇道に抗する王道としての医学」(1999)

今月14日(土)に開催される『昭和前期の科学思想史』合評会に向けて、僕がコメントする愼蒼健先生の関連論文を読みました。

なお、合評会詳細はオーガナイザーの奥村大介さんの下記ブログまで。
2012-02-01 - les livres lus au clair de la lune
まだまだ申し込み受付中らしいので、お申し込みはお早めに!

愼蒼健「覇道に抗する王道としての医学――1930年代朝鮮における東西医学論争から」『思想』905、1999年、65-92頁。
のち、任正嚇(編)『朝鮮近代科学技術史研究――開化期・植民地期の諸問題』皓星社、2010年に再録。

朝鮮近代科学技術史研究―開化期・植民地期の諸問題

朝鮮近代科学技術史研究―開化期・植民地期の諸問題

 本論考では、1930年代の朝鮮の漢医学者たちが展開した漢医学復興運動における言説が検討されている。特に、その主導者でもある趙憲永(1900年生)の思想的遍歴を追うことで、彼の目指した「新医学」が、西欧近代医学でもなく東洋医学でもない、民衆の医療化による自己救済というオルタナティブであったことが確認される。そして、この趙の医学思想には、日本による当時の植民地支配への批判が内在していたのであった。

 漢医学復興運動は1930年半ばに興隆したが、その前史として、まず朝鮮における西洋医学と伝統的な漢医学との関係について簡単に説明がなされている。1913年に総督府によって制定された「医生規則」は、西洋医と漢医の身分を差別化し、前者が後者に優越するものであると規定したが、それに伴い漢医の没落は進行していった。同時代には漢医の復興運動が様々なかたちでおこなわれていたが、1920年代に入る頃には、それらの運動はほぼ消滅してしまっていた。しかし、1930年代に再興する新しい漢学者による漢医学復興運動は、西洋医学的な眼差しを漢医学にも投じながら、新たな漢医学復興運動を目指したのであった。
 この復興運動を鼓舞する人々に共通した問題意識として、農村を中心とする大衆医療の悲惨さがあった。ここで著者が特に注意を促すのは、漢医学復興運動における主張を安易に民族運動の高まりと結びつけるべきではないということだ。1930年代には、民族運動を行うにあたって、かつてのように直接的な政治運動として遂行することが難しくなっており、代わりに文化・生活運動としての民族運動が進展していた。しかし、必ずしも1930年代半ばの漢医復興運動はこの流れに位置づけられるものではなかったのである。むしろ、その運動は「生命の危機」という、より根源的な問題を前にした運動家たちがそれを解決しようとしたものであったといえる。

 それでは、具体的に漢医学復興運動において、どのようなことが主張されたのであろうか。ここでの議論の中心は、西洋医学と漢医学の関係をいかに捉えるかについてであった。まず、張基茂は漢医学と西洋医学の根本的な違いを強調し、西洋医学のもつ要素主義的な見方を批判しつつ、東西医学の共存を認めようとしなかった。一方、そのような見方に対し、西洋医学一元論を奉ずる鄭槿陽からは、あくまでも漢医学は西洋医学に従属的なものに過ぎず、治療薬など部分的には利用できると主張した。以上のような論点の他に、漢医学の神秘性とそれの科学化、治療費の問題、民衆保健への配慮などが論じられることになった。
 このように漢医学と西洋医学の関係性をめぐって、多くのことが漢医学復興運動において議論されたが、趙憲永はそれまでの東西医学の棲み分けや従属などの議論を乗り越えるべく、新たに「総合医療」構想を展開した。この趙の構想には、植民地支配に対する反対が秘められていた。というのも、当時はもはや植民地支配への反対を政治の言葉で明示的に表すことは難しくなっており、それに変わって医学の言葉を使って、その批判が試みられたのであった。なお、趙は多くの儒者がそうであったように、医学と政治との間の強い結びつきを信じ、医学による「民衆救済」を目指そうとしていた。

 趙の医学思想として、まず、「漢医学の科学化」があげられる。これは、これまでにも論じられていた漢医学の神秘性を退けつつ、陰陽五行説を西洋医学が理論として互いに矛盾しないことを主張したのであった。しかし、これはあくまでも趙の構想においては前段階に過ぎず、趙は陽(=漢医学)と陰(=西洋医学)の「交易」によって、陰陽調和状態、すなわち「新医学」を目指そうとした。
 そして、ここで興味深いのが、新医学の担い手として趙が着目したのが、帝国拡大を目指す日本人医師ではなく、また西洋医学や漢医学を学んだ朝鮮人医師でもなく、農村に住む「民衆」たちであったということである。というのも、西洋近代的な物質観に偏ってしまった現代において、東洋的な精神文化を保持し、対抗できるのは、物質文明にまみれていない農村の民衆であるからである。
 彼ら自身が漢医学を学び、自らにその医療を実践することを通じて、西洋近代医学が要請するパターナリスティックな患者・医師関係からの解放を趙は試みたのであった。同時に、この「民衆の医術化」は、西洋近代医学への対抗となるだけでなく、日本人漢方医学者もまた拘泥していた医師=患者関係を乗り越えをはかったという点において、日本人医師に対する対抗ともなった。このような趙の独創は、植民地・朝鮮において形成された医学思想なのであった。