仁政イデオロギーと病気観の変遷:若尾政希「安藤昌益の病気論」(1992)

若尾政希「安藤昌益の病気論――身体・社会・自然」『歴史学研究』639、1992年、24-35頁。

 近年、幕府・藩が果たした公共的な役割が注目を集めるようになり、むき出しの権力をふるうかつての権力者像に対して修正が迫られつつある。例えば、君主のもつ仁君に注目して、民衆への「優しさ」を好意的に評価しようとした研究などがあらわれている。なかでも、吉宗による一連の医療政策が、民衆救済の一環であったことは有名であろう。しかしながら、著者はそのような公儀の機能を楽観的にポジティブに捉えるのではなく、それに対峙し、葛藤する人々の思想を明らかにしようと試みている。
 本論で注目される安藤昌益(1703-1762)は、幕府のうたう「仁政」の欺瞞性を鋭く指摘した人物である。彼は当初、為政者のいう「仁政」や「天道」という考えを受容し、それに基づいた自然観・病気観をもっていたが、次第にそれらを否定し、新たな論理に基づく自然観・病気観を形成するようになっていく。そして、この思想的変遷を著者は当時の社会的背景を考慮に入れつつ説明しようと試みている。

 そもそも、為政者はなぜ仁政を行う必要があったのだろうか。為政者は自己が権力者であることの正当化をはかるとき、自らが天によって定められた者であるとした。この考えは天譴論とも呼ばれ、戦国時代の天道思想から連なるものである。この思想では、為政者が悪政をおこなうと、人民の苦しみが天に通じて、天災が起こると考えられた。翻って、為政者は人々を救済することによって自らの政治が良政であると示そうとし、また、人々にとってもそのような姿勢は為政者の責務であると考えられていた。
 医師であり、本草学者として知られる安藤昌益もまた、当初、天譴論の思想に基づいて、仁君のあるべき姿を説いていた。例えば彼は、仁君たる者は必ず天文・気候を観察し、災害が起きそうなときには仁政によってそれらを未然に防ぐよう努めるべきだと主張している。延享期(1744-1748年)、昌益が住んでいた八戸藩は慢性的な凶作に陥っていたが、昌益はその著『暦大意』(1745年)において、そのような状況は為政者の民に対する仁政が不十分であることの証左であるとし、為政者の責任を追及したのであった。
 このように為政者のあるべき姿を提示しようとした昌益であったが、宝暦期(1751-1763年)になると、もはや為政者の存在自体を否定しようとすることになる。つまり、為政者は天によって選ばれた者などではなく、「天道」を盗んだ悪者であると捉えられるのである。そして、治者と被治者という社会秩序を放棄し、昌益は新たに「食の論理」という社会秩序のアナロジーを提示する。そこでは、穀の有無が人の生死を左右する当時の飢饉下の状況を十分に意識されつつ、穀が人の精神的・肉体的な活動を司っているという思想が披瀝されている。つまり、かつてのように天の運気によって病気や天災を理解しようという姿勢は薄れ、それに代わり、食物が人の精神や身体の状態を規定しうるという新たな見方が打ち出されたのであった。

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